Sola Gratia

四旬節第2主日 説教

ニコデモとの対話

1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

ニコデモという人はファリサイ派に属する、最高法院(マタイ26章59)と呼ばれていたユダヤ人議会の議員でした。この人が夜、イエスさまを訪ねてきて、《ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです》と挨拶します。ニコデモは、イエスさまがただ者ではないと考えていたのでしょう。ところが、イエスさまはニコデモのほめ言葉を受け流して、すぐにニコデモの問題に切り込みます。《はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない》と、繰り返して「はっきり言っておく」と言います。これはイエスさま自身が「これは真実のことだ。これから私が言うことをよくよく心して聞きなさい」と言ったということです。誰でも、新しく生まれなければ、霊と水によって新しく生まれ変わらなければ、神の国を見、神の国に入ることはできない、救われることはない、と言ったのです。ニコデモがこの言葉に驚くのは無理もありません。当時のユダヤ教には、神の霊によって生まれることが神と人間の関係の土台であるという思想はなかったのです。

ニコデモはイエスさまに「神のもとから来た教師」、「神が共におられる方」と言うけれども、自分の言っていることが本当には分っていない、とイエスさまは見たのです。もし、本当に自分の言っていることが分かっているなら、イエスさまが行った奇跡に感心しているだけでは済みません。それは、イエスさまの中に生ける神を見出し、イエスさまに従うという決断を生むはずです。イエスさまは、ニコデモの中に、自分の存在が掛かっていない信仰を見たのです。それは次の彼の返答において明らかになります。

ニコデモは、《年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか》と答えます。もちろん、イエスさまがここで、もう一度母親のお腹に入って誕生し直すということを言っているわけではありません。まさに、神によって新しく造り変えられる、生まれ変わって新しくなるということを言っているのです。ニコデモも、人間がもう一度お母さんのお腹に入って、生まれ直すことなどできるはずがないことは分かっています。イエスさまが言っていることを理解した上で、自分は生まれ変われやしない、いや、変わりたくと言っているのです。これを不信仰というのです。それは、神を信じると言いつつ、自分を変えることのできる神の力を信じていないし、自分はこのままで良い、たとえ神によっても自分は何も変わりたくないというような神に対しての態度です。

人は誰でも自分の経験や自分の考え方、自分の生き方というものを持っていて、それを変えたくないと思っています。人は、自分は変わらないで、神の恵みだけはいただきたいと考えるのです。たとえば、「聖書のここは私の考え方と同じだから受け入れる。この教えはなかなか良いことを言っているから本当だと思う。しかし、ここはとても受け入れられない。あるいは、聖書のここは変だ、間違っている」と考えます。しかし、このような態度では、結局、自分の考える救い、自分の頭の中に入れられるだけの恵みしか受け取ることはできないのです。それでは残念ながら神によって生まれ変わるということは起きません。私たちは本当に神に対して頑なで、頑固です。

ところが、神はそのような私たちをも変えてくださいます。イエスさまが「新たに生まれなければ」「水と霊によって生まれなければ」と言ったのは、「あなたの信仰は頭の中だけだ。神の力を信じていないから救われない」と突き放したのではありません。「あなたは神の力によって生まれ変われる。そして救われる。私はそのために来た。私があなたを生まれ変わらせる」と言ってくださっているのです。《水と霊によって生まれなければ》というのは、洗礼を指している言葉です。イエスさまは、「私は、あなたの頑固さの罪の裁きを引き受けて、あなたの代わりに十字架につく。だから、あなたの頑固さは砕かれ、神の力によって、洗礼によって、あなたも新しく生まれ変われる」と語りかけています。私たちが神によって変えられることを求めさえすれば、神は必ず私たちを新しく生まれ変わらせてくださいます。

このニコデモの不信仰は、さらに明らかになります。イエスさまは、《風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである》と言います。ここで「風」と訳されている言葉は「霊」とも訳せます。つまり、風がどこから来てどこに吹いていくのか分からないように、霊もまた人には分からない。しかし、霊は明らかに神から出て、神の業を行い、神の御許に帰ります。それと同じように、霊において新しく生まれた者も、人間には分からない仕方で、霊において生まれた者は、神によって生まれ変わり、そして神の国に上げられていくということです。これは、まことに人知を超えたことです。ニコデモは、《どうして、そんなことがありえましょうか》と問い返します。

イエスさまは答えて言います。《モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである》。イエスさまはさらに神が私たちをどう思っているのか、神の御心を解き明かします。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。これは大変有名な言葉で、口語訳では、イエスさまの言葉は15節までで、16節からは福音書の著者の解説とされていました。しかし、新共同訳ではこの16~21節まで含めて、すべてイエスさまの言葉として、同じカギ括弧の中に入れられました。聖書の原文にはカギ括弧などは付いていないので、どこまでが会話で、どこまでが地の文なのかは、読む人が判断しなければなりません。それで、訳本によって違ってくるのです。新共同訳では、この言葉は、イエスさまの救いの意志を示している言葉と解釈されたわけです。「独り子」とはイエスさまご自身のことです。イエスさまはここで、「神は、あなたがたが永遠の命を得るために、救われるために、私を遣わされた」と言います。イエスさまは、私たちを何としても救おうという、揺らぐことのない絶対の救いの意志を宣言しているのです。私たちは、この言葉とそれを実現することのできる神の力を信じなさいと召されています。

この神の霊を吹き込まれて新しく生まれ変わったとき、私たちは自分自身が自分の人生の主人ではなくて、神が自分の人生の本当の主人であることを知りました。自分の命が、神に与えられた命であることを知りました。神の恵みによる支配が、すでに自分の所に来ていることを知りました。私たちはどこでこの神の霊を受けたのでしょうか。この礼拝においてです。私たちは神の御言葉と共に霊を受け、生まれ変わりました。そして、その出来事は、毎週の主日礼拝の度毎に、起き続けているのです。私たちは、神の御前に新しくされ続けているのです。私たちはこの恵みにあずかる者として神に招かれているのです。この恵みに感謝しつつ、共に歩んでいきたいと思います。