Sola Gratia

顕現後第6主日 説教

しかし、わたしは言っておく

21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。 26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

《21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》

きょうの朗読箇所は21節から37節までと長く配分されていますが、きょうは21節から32節までのみことばに絞ってお話ししたいと思います。

イエスさまは、《あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている》と語り始めます。人を殺した者は裁判にかけられて罰を受ける。それは当たり前のことと思われますが、ここでイエスさまは《昔の人は》と言ってます。これは、神の掟の基本である「十戒」に、《殺してはならない》(出エジプト20章13)と命じられていることを指しています。この十戒の掟に基づいて、《人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる》(出エジプト21章12)等々と定められています。イスラエルでは昔からずっとそのように定められてきた、とイエスさまは言っているのです。なぜ人を殺してはならないのか。それは、結局は、神がそう言っておられるからということになると思います。

そして、イエスさまが続けて言ったことは、驚くべきことでした。《兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける》。この「兄弟」というのは、肉親の兄弟だけでなく、仲間や同胞も含む言葉ですが、すべての人がこの「兄弟」という言葉の中に含まれてくると言えると思います。つまり、誰かに対して腹を立てる者は誰でも裁きを受ける、とイエスさまは言っていることになります。

ここでイエスさまが言おうすることは、「殺すな」という十戒の教えを引用していることから分かるように、人に対して腹を立て、バカとか愚か者と言ってののしることは、殺人と同じであると言っているわけです。つまり問題は、相手を憎むという心です。そしてそれは人を殺すのと同じことだとイエスさまは言います。すると、誰もが該当者になってしまうことでしょう。

実際に人を殺したわけでもないのに、心の中である人を憎み、ののしっただけで、どうして殺人と同じことになるのか。それは、《人は目に映ることを見るが、主は心によって見る》(サムエル上16章7)のだからです。

それゆえ、23~24節にあるように、憎しみを抱いたまま神に供え物を献げて礼拝しても、神はそれを受け入れません。お祈りしても聞かれないということです。憎しみをゆるしに変えなければならないのです。

25節からは、別の話になっています。ここに出てくる裁判官は神さまのことをたとえています。心の中で憎しみを抱き、人をののしる私たちは、もはや弁解の余地はありません。それは殺人と同じだというのですから、神の裁きを受けなければなりません。私たちの人生は、裁きを受けに行く道中みたいなものです。裁きを受ける前に、早く手を打たなければなりません。イエスさまによって神と和解させていただくしかないのです。イエスさまは十字架にかかって、ご自分の命と引き換えに、私たちの罪をゆるし、神と和解させてくださいます。このイエスさまを信じることです。

このように、きょうの聖書は、私たちが神から見たら殺人に等しい罪を犯していることを自覚させると共に、そのような私たちを救い、神と和解する道があることを示していることが分かります。それは、イエスさまを信じるということです。こんなどうしようもない私たちを救ってくださるイエスさまを信じる。イエスさまを通して、私たちは神と和解させていただけるのです。

《27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。

31 『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》

《姦淫してはならない》は、旧約聖書に記されている掟の根本である「十戒」の掟の一つです。前の段の《殺すな》も十戒の掟の一つでした。「姦淫」とは、分かりやすく言えば「不倫」ですが、「姦淫」という訳語は、今日で言う「不倫」と同じではなく、レビ記18章に書かれているさまざまな「いとうべき性関係」を含みます。それで、「姦淫」という言葉をあてているわけです。

ここで《みだらな思い》と訳されている言葉は、口語訳聖書では《情欲を抱いて》と訳しています。また、《他人の妻》と訳されている言葉は、口語訳聖書では《女》と訳しています。この28節を、口語訳聖書では、《しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである》となっています。このように訳すと、「他人の妻」に限定されず、女性すべてを指すこととなります。実際に原文は「女」となっています。

この段落は次の31節からの段落にまでつながっているのです。そこでは離婚について語られているように、この段落は、結婚した夫婦について言われていることが分かります。結婚した者が、他人の妻だけではなく、他の女性をそのような情欲の対象として見たら、それは結婚の破壊となります。そのように、結婚は大切なものであることを述べているのです。

31~32節では、夫が妻を離縁することについて述べられています。当時、夫は離縁状を書けば簡単に離婚できたのです。夫が自分の都合で勝手に離婚できる。それは、姦淫と同じだとイエスさまは言います。つまり、それは結婚というものを重んじていないからです。

聖書はその最初から結婚について書いています。《こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる》(創世記2章24)。そこに愛があるのです。異なる二人は、愛がなければ一つにはなりません。

こうしてイエスさまの語った言葉の意味が見えてきます。それは、「こうしたらダメだ」、「目をえぐり出して捨ててしまったほうがマシだ」、「こんなことをしたら地獄行きだ」という禁止命令以上のことです。もっと前を向いて、「愛する」ということに目を向けさせているのです。愛ということに目を留めれば、他の異性を求めるようなことは当然しません。これが、イエスさまが言わんとしていることです。

そのように、愛ということが背景にあってこれらのことが語られています。そうすると、はじめに読んだ箇所も同じことになります。その段落では、やはり十戒の《殺してはならない》という掟から、人を憎むことはすでに心の中で殺人を犯したのであり、殺人と同じことなのだと言われていました。そこも、他人を憎むという方向に行くのではなく、愛するという方向に向かうようにイエスさまは私たちを促しておられると読むことができるでしょう。

29~30節で《もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・》と言われていることも、なにも姦淫についてだけ語られているのではなく、憎むことについても語られていると読むべきです。すなわち、すべての罪についてそのように言われているのです。

神の御心に背いているなら、罪を犯しているなら、それは地獄に落とされる。それほど重いことなのだということです。では、私たちはどうしたら救われるのか。もう無条件の愛であるイエスさまにゆるしていただくしか道はありません。こうして、山上の説教の冒頭の言葉、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」というお言葉が生きてきます。

こうして救い主であるイエスさまは、愛することがむずかしい私たちをゆるし、愛することができるように助けてくださうます。まさにそこに喜ばしい知らせ、福音があります。私たちが、イエスさまに表された神の愛を知り、自発的に神を愛し、隣人を愛することヘと向かわせてくださるのです。イエスさまは愛なき世界に来て、神の愛へと招いています。私たちもイエスさまと共に前に向かって歩んでいきましょう。そこに道が開かれてくるのです。