Sola Gratia

顕現後第5主日 説教

地の塩・世の光

13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

《13 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。》

《あなたがたは地の塩である》とはどういう意味でしょうか。「地」は、天に対する地という意味で、この地上の世界のことを指しています。このあとの《あなたがたは世の光である》の「世」と同じことです。

「塩である」というは、塩の役割をしているという意味でしょう。塩の役割は、まず食べるものに味付けをするということがあります。料理にはほとんど塩を使います。また、塩は腐敗を防ぎます。食物でも塩に漬ければ腐りません。また、塩は毒を抜くこともできるそうです。イエスさまが「あなたがたは地の塩である」と言ったのは、この世の中に味を付け、また腐敗を防ぎ、毒を抜くという役割を果たすということになります。

「世の光である」の「光」は、ものを照らすという役割があります。また、星のような小さな光は、ものを照らす明るさはありませんけれども、星は方角を教え、自分の位置を教えて、どこに向かって行ったら良いかを示します。さらに、光は私たちに潤いを与えます。例えばクリスマスのイルミネーションは、心を和ませ、潤いを与えてくれます。

このように、塩のすばらしい役割、そして光のすばらしい働きを考えると、地の塩、世の光とは、イエスさまご自身のことだとしか言えません。それなのに、イエスさまは《あなたがたは地の塩である》、《あなたがたは世の光である》と言います。さらに、《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである》と語っているのです。

いったい、その「あなたがた」とはどういう人たちのことでしょうか。それは、今、この小高い丘の上で、イエスさまの周りで話を聞いている人たちです。イエスさまの弟子たちと、イエスさまに付いてきた人々です。それは、この礼拝に集まっている人々に向かって話しているのと同じです。イエスさまは、私たちに向かって、「あなたがたは地の塩である」と言い、「あなたがたは世の光である」と語っているのです。

イエスさまは、「あなたがたは地の塩である」と言います。それは、私たちが自分から塩になるように努力するというのではなく、イエスさまがあなたがたをそのようにするということなのです。「あなたがたは世の光である」も、自分自身が光り輝くというよりも、イエスさまの光を照らすものとなるということに違いありません。月が太陽の光を反射して光るように、です。イエスさまを信じ、そのみことばに耳を傾ける者を、イエスさまそのように用いると言います。イエスさまの役に立たせていただけるというのです。

《17 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。》

「あなたがたの立派な行い」とは、イエスさまご自身の義に基づくものでしたが、それはまた「律法や預言者」にある掟を行うことでもあります。そこで、この段落では、イエスさまと聖書との関係を明らかにされます。

ユダヤ教ではイエスさまを信じていませんから、旧約聖書だけが正典です。ユダヤ教では旧約聖書を、律法・預言者・諸書の三つに分けています。「律法」というのは、創世記から始まる最初の五つの書物を指します。そして、「預言者」と「諸書」は、「律法」の解釈と、日常生活への適用です。

「預言者」というのは、イザヤ書、エレミヤ書といった預言者の書のほか、ヨシュア記や列王記なども含みます。三区分のもう一つの「諸書」は、詩編や雅歌、ヨブ記やエステル記などを含みます。しかし、イエスさまの時代にはまだ「諸書」は正典として認知されておらず、「律法」と「預言者」までが正式な正典とされていました。ですから、《律法や預言者》というのは、旧約聖書のことなのです。

そうすると17節の言葉は、イエスさまは旧約聖書を《廃止するためではなく、完成するため》に来たという意味になります。つまり、旧約聖書だけでは未完成だったということです。

18節ではイエスさまは、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言っています。旧約聖書には神の裁きによって多くの人が死んだことも書かれています。戦争のことも書かれています。倫理に反する人も多数、登場します。それらの負の歴史、痛ましい歴史があって、現代があるのです。

私たちの人生も同じでしょう。過去には失敗もあった。ひどいこともあった。悲しいこともありました。私たち一人ひとりは、そういう過去を歩んできて、現在があるわけです。イエスさまは「律法の文字の一点一画も消え去ることはない」と言いましたが、それは、私たちが歩んできた人生のどの一コマだって無駄ではなかったということです。私たちには、消してしまいたいような過去があるかもしれません。しかしそのような過去も、イエスさまによって、祝福へと変えられる経験となっているということです。

この「完成するためである」の「完成」と訳されているギリシア語は口語訳聖書のように「成就」と訳すこともできます。「完成」ならば、人は旧約聖書の要求を満たすことができなかったが、イエスがそれを満たして完成させた。「成就」であれば、旧約聖書は預言であり、イエスさまがその預言の成就であるということになります。いずれにしても、旧約聖書はイエスさまがいなければ終わらないということです。聖書は、イエスさまによってはじめて完成される、成就されるものであることが分かります。聖書はイエスさまを証し、イエスさまは聖書においてご自身を啓示するということです。神と人間の交わりは直接的なものではなく、聖書を仲立ちとするものだということです。

最後の20節に、《言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない》とあります。律法学者やファリサイ派の人たちよりも、正しさ、善がまさっていなければ天の国に入ることはできないと言っています。イエスさまは私たちが天の国に入るための条件を吊り上げたのでしょうか。

しかし、この山上の説教の最初には、《心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである》(5章3)とありました。正しさがない、善もない、自分はまったく心の貧しい者である。しかしその心の貧しい私に、イエスさまは「天の国はその人たちのものである」と言ってくださる。天の国をくださる。神さまのところに連れて行くと約束してくださいました。

つまり、イエスさまが、この私たちを律法学者やファリサイ派にまさる者としてくださるのです。イエスさまが来たことによって、初めて聖書は聖書となる。同じように、私たちの人生は何によって完成したと言えるか。それはイエスさまを迎えることによって完成するということです。それでイエスさまは、私たち一人ひとりのところに近づいて来られるのです。イエスさまが来られたのは、私たちの人生の過去を廃止するために、否定するために来られたのではなく、完成するために来られたのです。

私たちがイエスさまを迎え入れたとき、たとえこの世の目で見たら、失敗だらけの不本意な人生であったとしても、それは完成するのです。この私のような人生でさえも、です。感謝というほかはありません。

地の塩であり世の光であるイエスさまが、ご自身を私たちに与えてくださる。律法や預言者を実現したイエスさまの義が私たちに与えられる。こうしてイエスさまが私たちに代わって、すでに律法や預言者を実現し、その義を与えてくださっているため、私たち人間が律法や預言者の要求を行うことによって救いと義を獲得するのではなく、イエスさまに喜んで従う感謝の道を歩むということになります。そして、そのような感謝に生きるための推進力は、「わたしがあなたを地の塩、世の光にしている。ぜひともわたしの義を受け取りなさい」と言っておられるイエスさまの愛にあります。