Sola Gratia

顕現後第4主日 説教

祝福の言葉

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/4悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/5柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。/6義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。/7憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。/8心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。/9平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。/10義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

きょうの福音書は、7章の終わりまで続く、イエスさまの「山上の説教」の冒頭の箇所です。これが「山上の説教」と呼ばれるのは、《イエスはこの群衆を見て、山に登られた。……そこで、イエスは口を開き、教えられた》とあり、8章1には《イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った》と書かれていて、その間にイエスさまの説教がまとめられているからです。その山が、どの山だったのか明らかではありませんが、古来、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムの北西にある山がそれだとされ、「祝福の山」と名付けられています。その小高い山には八角形の美しい「祝福の教会」が建っています。山の下に広がる斜面の先に、ガリラヤ湖の美しい景色を見渡すことができます。

イエスさまは山に登って教えられました。聖書では山はそこで神と親しく出会う場であり、神の啓示、神のみ声を聞くところと考えられていました。イエスさまは弟子たちとその周りにいる群衆をご自分のもとに集めるとともに、神のみ前に招いたのです。

山上の説教は祝福の言葉で始まります。ギリシア語の原文では、「幸いである~人々は。なぜなら~」という形です。文頭には《幸いである》という宣言があり、続いてこの祝福を受ける人の状況について述べ、最後に祝福の内容が示されます。

この文型が九回繰り返されますが、最後の祝福は、それに先立つ八回の祝福とはかなり文体が違っています。八回の祝福がいずれも簡潔な文であるのに対して、最後の祝福は長い散文体になっていますから、これは直前の10節の拡大ないし言い換えと見做され、「八福の教え」という呼び方もなされています。八角形の「祝福の教会」の内部の八つの壁面には、八つの祝福の言葉がそれぞれの面にラテン語で記されているのもそのためです。

《幸いである》とは、単に「幸せである」という一般的な幸運ではありません。私たちが日常の生活の中で感じる幸い、喜び、平安とは、本質的に違うものです。この「幸い」は、天の父なる神から与えられる幸いであって、神と人との正しい関係を示すものです。この祝福の言葉は、天におられる神から私たちへの、祝福を受け取りなさいという招き、呼びかけなのです。

私たちはこの世の生活で幸いや喜びをできるだけ多く経験したいと願っています。にもかかわらず、突然に災いや不幸が押し寄せて来ます。私たちがこの世で経験する幸いや喜び、また災いや不幸はさまざまで、生まれては消え、生まれては消えていきます。しかし、イエスさまが語る幸いは天の神が私たちのために新たに造りだしてくださる幸いです。すなわち、幸いがないところにも、それのみか不幸と絶望の淵に立たされるときにも、神は《幸いである》と天から呼びかけてくださり、その恵みのみ言葉によって新たに幸いを創造してくださるのです。

ここで幸いだと言われている人たちは、一般的に人が考えて幸いだとは思われないような人たちです。第一は心の貧しい人々、第二は悲しむ人々、第三は柔和な人々が幸いだと言われていますが、多くの人は、貧しい人ではなく豊かな人の方が幸いだと考えるでしょう。悲しむ人ではなく喜んでいる人が、柔和な人よりは強い人が幸いだと考えるでしょう。しかし、イエスさまが言う幸いは、この世の規準とは確かに違うのです。

《心の貧しい人々》とは、意味が分かりづらい言葉です。日本語ではふつう「心が貧しい」とは、「がつがつとして貪欲な人」とか、「おおらかさがなく他人に寛容でない人」を意味します。反対に、「心が豊か」とは、ふつう「感受性に富んでいる」とか、「思いやりが深い」とか、「心の中が充実感や喜びで満たされている状態」を意味します。しかし、ここではそういう意味で用いられているのではありません。《心の貧しい人々》とは、すべては神の恵みに生かされていることを自覚し、自らを貧しい者であるかのように見做している人です。富んでいても、すべては神様からの預かりものとして、神の御心に従う人のことです。

ですから、いま私たちが用いている『新共同訳聖書』の前に発行された『共同訳聖書』では、この箇所は《ただ神により頼む人は、幸いである》と訳されていました。それは意訳のしすぎだということで、新共同訳では「心の貧しい者」に戻りました。このほうが原文に近い訳だからです。しかし、この共同訳で分かるように、経済的にも物質的にも貧しく、きょう一日のパンをも神に依り頼まなければならない人、生きる知恵や力に乏しく、心弱く、あらゆる面で欠乏し、困窮しており、徹底的に貧しい人が、ここで幸いだと言われているのです。

第二の、「悲しむ人」とは、悲惨の中でくずおれている人、再び立ち上がる希望もなくただ悲嘆にくれるほかない人、嘆き、泣き叫んでいる人を意味しています。第三の「柔和な人」とは、力弱く、それゆえに敵に脅かされ、この世の権力によって抑圧され、打ち砕かれている人のことです。ここに描かれた状態こと、イエスさまが見ている人間の姿です。

そのような人間が、ここで幸いだと言われているのです。この世のはかりで判断すれば、とても幸いだとは言えないような人が、イエスさまによって《幸いである》と呼びかけられているのです。まさに、神のみ子であるイエスさまご自身が、彼らのためにまったく新しい幸いを造ってくださり、その幸いの中に彼らを招き入れてくださるからなのです。

そして、それぞれの文章の後半に、3節では《天の国はその人たちの者である》、4節では《その人たちは慰められる》、5節では《その人たちは地を受け継ぐ》と言われています。この後半のみ言葉は、前半に付けられている約束です。

このような約束が与えられているからこそ、彼らは幸いなのです。イエスさまは、貧しく何をも持たない人々に天の国を約束してくださいます。天の国とは神の国のことであり、イエスさまがこの地に来られたことによって始まった神の恵みと愛によるご支配のことです。天の国、神の国には、豊かな恵みと愛が満ちています。罪のゆるしの恵み、どんなに小さな者にも注がれる愛、神と共にある平安、喜び、そして永遠に神と共に生きる永遠の命があります。そのような天の国が貧しい人に約束されているのです。それゆえに、貧しい人々は幸いなのです。

悲しみにはいろいろな悲しみがあるでしょうが、悲しみの原因はすぐには取り除けないと思います。ですから悲しんでいても良いのです。その悲しみの中で、神に向かうとき、その悲しみは、神の御心に適う悲しみになり、私たちを悔い改めに導いて、すべてを神に委ねることができる、そうして慰められるのです。神が悲しみの中にある私たちを受け入れてくださるからです。

悲しむ人、悲嘆にくれている人の傍らに、イエスさまが立っていてくださいます。そして、《疲れた者、重荷を負い者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》(11章28~30)と約束し、「あなたの重荷をわたしが代わって担い、あなたの悲しみ、痛みのすべてをわたしの十字架で引き受けるから。そして、いつまでもわたしはあなたを離さず、あなたに永遠の慰めを与えるから」と言われます。だから、悲しむ人は幸いなのです。

マタイ5章から7章までの山上の説教の中で、この冒頭の言葉は小さなものですが、聖書全体を包んでいる大きな恵みと祝福を持った歓迎の言葉です。イエスさまの祝福のみ言葉は私たちを迎え入れ、信仰の道に招き入れているのです。それは、イエスさまが十字架の死から復活し、ご自身の霊を注ぐことによって実現します。ということは、イエスさまは祝福の宣言をしたときから、ガリラヤ伝道の最初から、十字架の死によって神の支配をもたらすご意思であったということです。イエスさまの祝福を受けている者、それが私たち人間の真の姿なのです。