顕現後第2主日 説教
ヨハネの証し―神の小羊
- 2020年1月19日(日)
- 顕現後第2主日
- ヨハネ1章29~42
29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
きょうの指定箇所の前半(29~34節)にはイエスさまについて大事なことが語られていますので、この段落をていねいに読んでいきたいと思います。
ヨハネ福音書では、ここで初めてイエスさまが登場しますが、《その翌日》とは、イエスさまが受洗した次の日のことと考えられます。ここには洗礼者ヨハネがイエスさまに洗礼を授ける場面は出てきませんが、イエスさまがしばらく洗礼者ヨハネと同じく洗礼を授ける活動をしていたことを伝えていますから(3章22)、イエスさまがヨハネから洗礼を受けたことを当然の事実として前提して話が進みます。
ヨハネは自分が洗礼を授けている理由について、こう語っています。《わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た》。ヨハネ福音書では「ユダヤ」がイエスさまと対立する意味を含むのに対して、「イスラエル」は善い意味で用いられています(1章47、49)。
ヨハネは、イエスさまに洗礼を授けたとき、聖霊が鳩のように降ってイエスさまに上にとどまるのを見ました。《だから、この方こそ神の子である》と信じたと言います。
洗礼者ヨハネがイエスさまを神の子と証しするとき、イエスさまの救い主としての働きは二つにまとめられています。すなわち、《世の罪を取り除く神の小羊》と《聖霊によって洗礼を授ける人》の二つです。この二つの働きは、どちらの一つが欠けても、イエスさまがキリスト(救い主)でなくなります。
ヨハネはイエスさまが現れたとき、イエスさまについて、《見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ》と証しします。この一言で、ヨハネは、イエスさまの生涯の意義をすべて言い表しているのです。つまり、神の子であるイエスさまが地上では十字架につけられて死なれたのは、「わたしたちの罪のため」であると、その生涯の意義を告知しているのです。パウロも、その意義を、《神は・・・罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです》(ローマ8章3)と説いています。
ここで「小羊」という象徴が用いられていますが、これは旧約聖書の祭儀で重要な「犠牲の小羊」を背景にしています。ユダヤ教の三大祭りの一つ、過越祭は昔イスラエルが奴隷の家エジプトから救い出されたことを記念する祭りですが、この祭りでは一歳の雄の小羊が犠牲として屠られ、家族または巡礼者のグループごとに過越の食事の中で食べられました(出エジプト記12章)。エジプト中の家が死の使いに打たれて初子が死んで嘆いていた中で、犠牲の小羊の血が入り口の柱と鴨居に塗られているイスラエルの民の家は、死の使いが過ぎ越して初子が死を免れたのです。この犠牲の小羊のおかげでイスラエルの民はエジプトから脱出することができました。
イエスさまの十字架上の死が「過越の小羊」としての犠牲であることは、どの福音書も強調しています。イエスさまご自身が過越祭の時期を選んでエルサレムに上り、過越の食事の席でご自分の死の意義を語っています。ヨハネ福音書は、イエスさまの十字架がまさに神殿で過越の羊が屠られる時であったとすることで、イエスさまの死が過越の小羊としての犠牲であったことを強烈に印象づけています。パウロも同様に、《キリストは、わたしたちの過越の小羊として屠られた》(Ⅰコリント5章7)と書いています。
このように世の罪を背負い取り除くための犠牲の小羊は、私たちが用意したものではなく、神が私たちのために備えてくださったのです。この意味で、「神の小羊」と呼ばれています。昔、アブラハムは約束によって与えられた独り子のイサクを犠牲として捧げるように命じられます。アブラハムがイサクを屠ろうとしたとき、神は代わりの雄羊を備えてくださり、アブラハムはその雄羊を屠って犠牲として捧げたと伝えられています(創世記22章)。そのように、私たちが自分の側で用意して捧げる犠牲ではなく、神が備え、神が与えてくださった「犠牲の小羊」としてのイエスさまによって、世の罪が取り除かれるのです。
イスラエルはアブラハムの時代からずっと動物の犠牲を捧げて神を礼拝してきました。自分たちのために屠られる犠牲の動物たちの姿は、イスラエルの魂の深みに刻み込まれていました。その犠牲の動物の中でも、可愛い小羊の姿はもっとも強い印象を与えたはずです。イスラエルの代表的預言者といわれるイザヤが、民を救うために苦しみを受ける「主の僕」の姿を、《屠り場に引かれる小羊のように》(イザヤ書53章7)と描いたのも、このようなイスラエルの歴史の流れの中でのことでした。このイスラエルの祭儀と預言を集約して、洗礼者ヨハネは今イスラエルに現れようとしている救い主を、《見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ》と指さしているのです。
さて、洗礼者ヨハネの証言は、《わたしはそれを見た。だから、この方(イエスさま)こそ神の子であると証ししたのである》という言葉で締めくくられています。「わたしはそれを見た」というのは、《“霊”が鳩のように天から降り、この方の上にとどまるのを見た》ことを指しています。イエスさまの本質は、完全な意味で神の霊がその上に、いやその内に留まる方なのです。
洗礼者ヨハネにイエスさまの本質を見させ、イエスさまが誰であるかを理解させたのは聖霊です。洗礼者ヨハネはもともと聖霊によって神の召しを受けて、水で洗礼を授ける活動をしていました。《水で洗礼を授けるようにわたしをお遣わしになった方が・・・わたしに言われた》とあるように、今イエスさまと対面する場で、洗礼者ヨハネを水の洗礼活動に召した聖霊、そしてイエスさまに降りとどまったまさにその聖霊が、洗礼者ヨハネにイエスさまの本質を見させ、理解させるのです。そして、洗礼者ヨハネは自分が見て理解したことを証言するのです。ここでは洗礼者ヨハネは、聖霊によってイエスさまが神の子キリストであることを知って、それを証言する者(それがキリスト者です)の模範として登場しています。
洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、イエスさまは聖霊で洗礼を授ける方として宣べ伝えられています。「聖霊による洗礼」という表現は、マルコ福音書1章8に初めて出てきて、マタイにもルカにも受け継がれています。ヨハネ福音書もイエスさまを「聖霊によって洗礼を授ける方」と宣べ伝えます。
次の段落(35節以下)で見るように、福音書記者ヨハネのグループの中核メンバーは洗礼者ヨハネと深い関係にありました。彼らはイエスさまの復活後、聖霊を受けた体験を語るとき、自分たちをイエスさまに導いた証人である洗礼者ヨハネの洗礼と重ねて語ることになったのでしょう。
御霊によって神に立てられた方を「神の子」とするのは、最初の宣教内容でした。イエスさまが「神の子」であるから、その十字架の死が「世の罪を取り除く神の小羊」であり、現在「聖霊によって洗礼を授ける人」として信じる者に聖霊を与える働きをすることができるのです。ここで洗礼者ヨハネは、イエス・キリストと、その救い主としての働きを証言しているのです。
こうして、ここでの洗礼者ヨハネの証言は、十字架の上に死なれたイエスさまを復活のキリストと告知し、その十字架の死を贖罪のための死と意義づけ、このイエスさまを信じて御名を言い表す者に聖霊の賜物を約束します。
聖霊による洗礼は、水の洗礼を無効にするものではありません。私たちが、与えられた洗礼にどこまでも忠実に従うならば、私たちの知らなかったお方に出会い、必ず聖霊の洗礼に与ることができるのです。
ヨハネ福音書では、御子と神との親密さが強調されています。イエスさまが、聖霊によって洗礼を授けるのは、イエスさまとイエスさまを信じる人たちとの間に深い「霊的な交わり」が成り立つためです。この交わりは、イエスさまを通じて、その父である神との交わりへ人を導き入れるものです。父なる神と御子イエスさまが一体となった交わりが、聖霊の働きをとおして、私たちを父なる神との交わりへと導きます。
しかし、このような親密さは、人間のほうから神を知り、こちら側から神と親しくなるという仕方では語られません。そうではなく、イエスさまが神から遣わされた方として、しかも、私たちの罪を赦し贖い、私たちをイエスさまと一つに結ぶことによって、神からの言わば「贈り物」として与えられるのです。