Sola Gratia

主の洗礼 説教

イエス、洗礼を受ける

13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

《そのとき》とは、前の7~12節で、洗礼者ヨハネがファリサイ派やサドカイ派の人々に代表されるイスラエルの民に対して説教していた時のことです。

しかしまた、《そのとき》とは、そのような地上の時を示すと共に、神の救いの計画が進行する時をも示しています。洗礼者ヨハネの説教は裁きのメッセージでした。それは、神の支配が確立し、いのちにあずかる者とそうでない者に分離される、だから悔い改めて洗礼を受けよ、差し迫った神の支配に入れ、というものでした。そのような裁きのメッセージがイスラエルの民に告げられた《そのとき》、イエスさまが現れたということです。

ここから明らかなように、神の裁きはイエスさまと無関係に語られるものではないのです。もしも、イエスさま抜きに神の裁きを考えるなら、それは人間の考え出した裁きであって、神の裁きではありません。神の裁きはイエスさまと共に行われ、赦しと共に行われるわけです。

イエスさまがヨハネのもとに来たのは《ガリラヤから》でした。ガリラヤ地方は、神の導きによってイエスさまとその家族がヘロデ一族の迫害から身を隠していた地域です。ですから、《ガリラヤから》というのは、ただ地理的な説明だけだはなくて、それまで身を隠していたイエスさまが、今や、公然とその姿を世に現したという意味になります。

イエスさまがヨハネのところに来たのは、《洗礼を受けるため》でした。ところが、ヨハネはこう言います。《わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか》。

ヨハネにとってイエスさまは、先駆けである自分の後に、真の王としておいでになる方であり、神の支配を確立する方、したがってまた裁きをなさる方です。ですから、ヨハネのこの言葉は、二重の驚きを表しています。一つは、真の王である方が身を低くして、価値のない私のような者ところに来てくださったということ。もう一つは、イエスさまが洗礼を受けると言って、裁く方であるのに裁かれる立場になっているということです。罪ない方が、罪の告白をし、悔い改めを必要とする人間の立場になっているのです。これは、ヨハネにとってはまったく理解の及ばないことでした。そして「裁く方が裁かれる立場になっている」ということは、ヨハネだけでなく、今日の私たちにとっても、やはり理解を超えることであり、驚くべきことではないでしょうか。

そこで、イエスさまはこう答えました。《今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです》。「正しいこと」とは、イエスさまが洗礼を受けるということです。イエスさまは裁く方であるにもかかわらず裁かれる立場に立つことが正しいと言っているのです。イエスさまが裁かれる立場に立つのは、イエスさま自身の思いつきや独断ではなく、神が求めていることであって、神の御心と一致したことなのです。

しかもここで、イエスさまは、《我々にふさわしいことです》と言っています。イエスさまは、ここで洗礼者ヨハネを、裁き主の先駆けという立場から、裁き主であると同時に裁かれる方の先駆けという立場へと、修正し、造り変えているのです。そしてこのことは、さらにイエスさまの訪れを先駆けとして宣べ伝える教会についても言われることです。

こうした一連のことは、ヨハネにとっては、それまでの神信仰の内容を造り変えることであり、容易に受け入れられるものではありません。しかし、《ヨハネはイエスの言われるとおりにした》のです。ここにヨハネの信仰があります。

ところで、歴史学の研究では、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けることによって、ヨハネの弟子になり、いわばヨハネ教団のメンバーになったと言います。ここで起こっていることを外側から見るとそういうことになりますが、福音書は、歴史的な事実を告げるだけでなく、歴史的な事実が指し示す神の救いの業を明らかにしようとしているものです。

さて、《イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中からあがられた》とあります。イエスさまは私たち人間と同じように裁かれる立場に立ち、私たち人間と同じく罪の告白をし、神の許に立ち帰りました。イエスさまは罪のない方でしたから、本来、そのようなことをする必要はありません。しかし、私たちすべての人間の代理として、罪の告白をしつつ洗礼を受けたのです。

ヨハネの洗礼は、悔い改めのしるしでした。つまり、神の支配のもとに生きるという方向転換を示すものであり、罪からの決別を表明することを意味しました。要するに、その洗礼は人間の側から神の支配の許に入ろうとする行為でした。ところが、イエスさまは自ら洗礼を受けることによって、洗礼そのものを新しいものに造り変えてしまったのです。

洗礼のことをギリシア語で「バプテスマ」と言います。これは、「浸す、おぼれさせる、水没させる」という意味の言葉に由来します。ですから「バプテスマ」は、浸すことだけではなく水没です。人は水没したら、死んでしまいます。そのようにバプテスマにおいて、罪から洗い清められますが、それは、あけすけに言えば、罪人として死ぬという意味での洗い清めとなりました。また「水の中から上がる」とは、死からの復活を意味するものとなりました。

イエスさまは、裁かれる人間の立場になって、十字架上で罪に死に、そこから復活されますが、そのような御自身を洗礼に結びつけたのです。そのため、私たちが洗礼を受けることは、ただ水によって洗い清められることだけではありません。洗礼をとおして、イエスさまの死と復活に結び合わされることになったのです。

こうした洗礼の意味について、パウロは次のように言っています。《わたしたちは洗礼によって、キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです》(ローマ6章4)。

このように、洗礼は今や、単なる悔い改めのしるしから、イエスさまに結びつくための場となり、イエスさまと共に神の支配の許に生きる新しい命を得させる恵みの手段となりました。ですから、洗礼において、水没するとは、死んで復活されたイエスさまに向かって飛び込むことなのです。

さて、イエスさまが洗礼を受けたとき、次のようなことが起こりました。《そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降るのをご覧になった》。

神は御自身をイエスさまに向かって開き示しました。しかもそれだけではなく、神が御自分の霊である聖霊をイエスさまに与えたといいます。つまり、神の自己贈与です。それは「鳩のように降った」と言われています。「鳩」は、ノアの洪水の記事にあるように、平和が訪れたことを告げるシンボルです(創世8章11)。ですから、裁かれる者の立場に立って洗礼を受けたイエスさまにおいて、平和が実現するという意味であり、もはや裁きは人間に及ばず、無償で神の支配に入れられるという恵みを語っています。

さらに、私たちが注目しなければならないことは、聖霊はとくにイエスさまに降ったということです。聖霊は私たち人間に直接降るのではなく、イエスさまに結びつくことを通して私たちに降るのです。

それと同時に、《そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた》といいます。これは、詩編2編7をもとにしたみ言葉ですが、詩編2編は王の即位の歌といわれます。ですから、イエスさまはいまここで王に即位したと告げているのです。この王は、裁き主であるのに、自ら裁かれる者の立場に身を置いて神に裁かれ、私たちに赦しを与えるという仕方で治める方です。ここにイエスさまの、福音による統治があります。

このようなイエスさまは、とくに《わたしの心に適う者》と宣言されています。「心に適う」とは、「喜んで受け入れる」という意味の言葉です。イエスさまは、もともと神の愛する子であり、神と同じく裁くことのできるお方ですが、自ら裁かれる立場に立って洗礼を受け、十字架の死と復活を洗礼に結びつけ、すべての者が神の支配に入れるようにしてくださいました。そして、このような福音による統治は神が喜んで受け入れることであり、神のみ心と完全に一致しているということです。私たちが洗礼を受け、イエスさまに結びついて聖霊をいただくとき、私たちもまた愛する子と呼ばれ、神に喜んで受け入れられる者となるのです。