Sola Gratia

降誕祭(前夜) 説教

闇に輝く光

8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

イエスさまが生まれた頃のユダヤはローマ帝国によって支配されていました。時の皇帝アウグストゥスは、自分の支配下にある国々に対して、その人口を調査するように命令を出しました。税金を取り立てることができる人の人数を調べる必要があったのです。この調査は、《おのおの自分の町へ旅立った》とあるように、人々に出身地に帰って登録することを義務づけていました。イエスさまを身ごもっていた母マリアは、出産間近で、長い旅行をするには無理があったのですが、ローマ皇帝の命令は絶対でしたから従うほかありませんでした。

マリアの夫ヨセフはダビデ王の子孫に属する者であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ住民登録に行く必要がありました。このことは旧約聖書ミカ書5章1に《エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる》と記されていることの実現でもあったのです。つまり、ローマ皇帝が強制的にヨセフとマリアをベツレヘムへ行かせたように見えるけれども、この出来事が神の言葉の預言の実現としても実際に起こっていくという神の摂理の不思議さを私たちに示しています。

ナザレとベツレヘムは百キロ以上離れていて、大人の足でも5日かかると言われていました。マリアは身重でしたから、ロバに乗っていたかもしれませんが、この距離を旅することは大きな困難が伴いました。もちろん《お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38)と天使に答えた信仰深いマリアは神に守ってくださるように祈って旅をしたことでしょう。

《身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである》と、ここでマリアは「いいなずけ」と記されていますが、実際には、この時には婚約期間を終えて二人は結婚していたと考えることができます。

ベツレヘムに着いたヨセフとマリアは泊まる場所を探します。しかしこのとき、人口登録のために多くの人々がベツレヘムを訪れていたので、二人は泊まるところを探すのに苦労します。当時は、今のように予約して宿を取るということができませんでした。早い者勝ちであったのかもしれません。あちこち歩きまわりましたが、二人は泊まる部屋を取ることができませんでした。泊まる宿を見つけることができなかった二人は、ようやく家畜を入れる小屋に泊まる場所を見つけたのです。《彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた》とあるように、イエスさまは家畜小屋で生まれ、布でくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたのです。神の御子がこのような姿で生まれたのは、自ら貧しい姿で私たちの肉体を身につけられたからです。それはフィリピ章6以下に、《キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした》と記されているように、イエスさまがこのように馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたという出来事は、神の御子が私たちと同じ肉体を取ってこの世に来てくださったことを示し、私たちを救うための神のへりくだりの姿を現しているのです。

このイエスさまの誕生の光景を最初に見ることを許されたのが、羊飼いたちでした。彼らは野宿をしながら、夜通し羊の群れがオオカミなどの野獣に襲われないように、見張り番をしていたのです。彼ら羊飼いたちは、当時のユダヤの社会では、祭司や律法学者らとは異なり、金銭的に最も貧しい者でした。彼らがいつものように、ベツレヘム郊外で羊の番をして、野宿をしていると、突然あたりが昼のように明るくなり、主の天使が彼らに現れ、救い主イエス・キリストの誕生を告げたのでした。

このように、イエスさまの誕生の知らせを最初に告げられたのが、当時の社会で最も貧しいとされていた羊飼いたちであることも象徴的です。神の救いは、人間の基準や常識では計り知れないところにもたらされるのです。この世で頭が良いと言われている人や高い地位にある人ではなく、最も貧しいとされている者たちに喜ばしい知らせが告げられたことは、神の救いもそのようであるということを私たちに示しているのです。

《恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである》、と天使は羊飼いたちに告げました。私たちが救い主とあがめるイエス・キリストは、このように人間の泊まる部屋でなく、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされました。その姿は、私たちが神とあがめるお方の姿としてはあまりにも貧しいように見えます。もっと光り輝く、王宮のような場所で、多くの人々に歓迎されて生まれる救い主の姿を、私たちは望むようなところがあります。しかし、イエスさまは、貧しい姿で飼い葉桶に寝かされていました。その姿こそが、救い主誕生の姿であり、そのようなイエスさまの姿こそが、私たちの救いなのです。

天使のお告げを聞いた羊飼いたちは、《さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか》と、互いに話し合い、ベツレヘムへと向かったのでした。彼らは天使のお告げを疑うことなく、すぐ行動に移しています。それは、私たちに信仰の決断を知らせてもいるのです。この羊飼いたちのように、み言葉を告げられたならば、すぐに応答するような信仰を神は良しとされるのです。私たちも御旨を示されたなら、行動を起こさなければなりません。

神は、私たち人間を超えてる聖なるお方です。しかし、その神は、ただ天の高いところにいて、私たちの有様を眺め、高みの見物をしているようなお方ではありません。一番大切にしておられる独り子を人間の姿にされ、それも最も貧しい姿にされ、この世に遣わしてくださったのです。それがクリスマスの出来事に他なりません。

お生まれになったイエスさまは、神の言葉を告げ、病を癒し、多くの人々を救いに導きました。そして最後には私たちの罪を背負って十字架にかかり、三日後に復活されることで、私たちに確かな救いの道を示してくださったのです。救い主イエスさまの生涯は、へりくだって、私たちに仕えられる生涯だったのです。私たちの救いのために、神がこのようにへりくだることが必要だったのです。それが、私たちが信じるイエス・キリストの出来事なのです。

羊飼いたちは天使の告げる言葉に従い、生まれたばかりの幼な子イエスさまのいる場所を探し当てて、実際にベツレヘムの宿屋の馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされているイエスさまの姿を見て、マリアとヨセフに会った上で、天使たちが告げた内容を確認して、ほかの人に救い主の誕生の様子を語り伝えたのです。この羊飼いこそが、救い主イエスさまの最初の証人でした。彼らが聞いて見て伝えたことが、いま私たちが読んでいる聖書に載せられる元となり、多くの人に救い主誕生の様子を告げ知らせるものとなったのです。そして私たちもまた、この羊飼いたちのように、クリスマスの出来事を通して救い主イエスさまと出会い、その出来事を多くの人々に語り伝える使命を与えられているのです。私たちは、この羊飼いたちのように、クリスマスの恵みを、福音を、多くの人々に告げ知らせる者となりたいと願います。