待降節第4主日 説教
イエス・キリストの誕生
- 2019年12月22日(日)
- 待降節第4主日
- マタイ1章8~25
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
《イエス・キリストの誕生の次第》は、イエスさまの《母マリアはヨセフと婚約していた》ことに始まります。
イスラエルの人々は、ほぼ男子18歳女子13歳以上で結婚適齢期になったと考えられました。将来の花婿は結婚を申し込んで、まずモーヘルと呼ばれる花嫁料金を支払います。これはお金のことも、物品のこともあります。モーヘルには娘を嫁に出す父親に対する慰謝と婚礼の支度という性格があります。そして、将来の花婿と花嫁は結婚契約書を作成します。そこには、夫の死後、妻に分割すべき金額と品目が書き入れられます。そして証人の名前が書き入れら、花婿と花嫁が署名します。こうして婚約が成立し、法的には結婚と同様にみなされます。婚約期間は約一年です。ヨセフもマリアとこのようにして婚約したものと思われます。ところが、ここで異常な事態が生じました。マリアが、《二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった》というのです。
聖霊とは、働きかけをする神のことです。聖霊は、神の恵みを世界と人間に実際にもたらし現実化するお方です。ですから、聖霊がこの異常事態を引き起こしたということになります。
この異常事態に対して、マリアもヨセフも驚き、困惑したことでしょう。約束された未来の生活は閉ざされる上に、今や恥辱と刑罰が迫っています。しかし、聖書は彼らがどのように深く悩んだのかを語っていません。ただ《夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした》と告げています。もしもヨセフがマリアの受胎を公にするなら、マリアは姦婦として断罪されてしまいます。婚約は法的に結婚と同等に見なされたからです。
さて、ヨセフが離縁しようと考えていたとき、主の天使が夢に現れて言います。《ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである》。まず、神は天使をとおしてヨセフに「ダビデの子よ」と呼びかけます。神がイスラエルに、救い主である王を与えると約束していたことを思い出させているのです。次に、マリアを妻として迎え入れることを命じています。これは酷評に耐えることを求めていることになります。婚約する以前に夫婦の交わりをもったとか、姦婦を娶ったという非難を受けるに決まっているからです。そこで神は、《マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである》と明言します。つまり、ヨセフとマリアは、人間的な悲劇の重荷に耐えて、神の計画を実現する器とされているのです。
マタイ福音書は、イエスさまの誕生の記事によって誕生の仕方を説明したいのではありません。もともと聖書にある誕生や受胎の記事は、その人間がその本質において何者であるかを告げるものです。イエスさまはそもそもどのようなお方であるか、そのことを告げようとしているのです。
《マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである》という、このみ言葉は、神はもはや人間の力を用いることなく、直接、介入してくださったと告げているのです。つまり、神ご自身が、身を低くして、人間となられたということです。マリアに宿った子は、ご自身において、神と人間の交わりが完全に実現しているお方であるという意味です。大切な点は、神と人間の交わりです。
神は、マリアの子において、ご自分が「人間と交わる神」であることを明らかにしました。また同時に、マリアの子において、人間とは、「神との交わりに生きる人間」に他ならないことを明らかにしたのです。「人間と交わる神」であるとは、今や神が、ご自身を人間無しの神ではなく、人間と共にいる神であると明らかにしたということです。すなわち、私たち人間の辿る運命をすべてご自分の問題としておられる方だということです。誕生から死へ向かう人間存在、その間、愛に苦しみ、病を負う人間存在、その全体をご自分の事柄として引き受けておられるというのです。私たち人間は、実は、神に担われた存在だということです。
「神と交わる人間」であるとは、人間は神のみ心に自由に聞き従い、これを最大の喜びとする者であるということです。そのような新しい人間、真の人間が、私にも与えられているということです。
マタイは引き続いて、マリアの子にイエスという名を付けるように告げて、この方がどのような使命を託された存在なのかを明らかにします。《マリアは男の子を産む、その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである》。イエスという名前は、ヘブライ語の「イェホシュア」または「イェシュア―」をギリシア語に音訳したもので、「ヤハウェは救い」という意味の名前です。この名前は特殊なものではなく、広く用いられている平凡なものにすぎません。しかし、それが返って、人々が幾世代にもわたって、どんなに神の救いを願い求めていたかということを示しているわけです。
ここで、神は天使をとおして「ヤハウェは救い」から踏み込んで、救いの中身を明らかにします。《この子は自分の民を罪から救うからである》と説明を付け加えています。イエスさまとは何者なのか。その方は「救い主」であり、「民を罪から救う」お方であるということです。
聖書でいう罪とは、個々人の犯罪や個々人のもつ性質や性根のことではありません。神に向かって生きることができない人間存在そのもののことを言います。神に向かって生きることができなければ、当然のことながら別のものを神に見立てて生きるようになります。創世記3章には、この別のものとは、神の如くになりたいという人間の高慢であることが物語られています(3章4~6)。イエスさまがもたらす救いは、そういう人間の根源的な罪からの救いです。すなわち、神に向かって生きる新しい命をもたらしてくださる方であると言っているのです。
この名付けの記事に続いて、マタイ福音書は喜びをもって解説を書き記します。《これらすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった》と言って、イザヤ7章14のみ言葉を引用しています。預言者イザヤは、ユダ王国の存亡の危機に際し、神の救いのしるしとして一人の男の子が誕生することを、神から示されました。マタイ福音書は、イエスさまがお生まれになったことは、これまで神が預言者をとおして語って来た救いの最後、決定的な実現であるというのです。
ところで、この《神は我々と共におられる》は、イエスさまご自身がインマヌエルであるお方である、しかもわたしのために《神は我々人間と共におられる》を身をもって実現してくださっているお方であるということです。マタイ福音書は、すでに系図において、神の救いの歴史を語りました。これは人間の側から言えば、罪の歴史であり、神に反抗する歴史であり、また没落していく歴史でした。ですから、私たち人間が神と共に生きることはなかったということを実証しています。しかし、神は最後決定的にイエスさまにおいて、ご自身を人間と共にいる神として明らかにしてくださったというのです。この人間とは、罪人である人間のことですから、そのような者と共にいるとは、とくに神みずからが罪を取り除くという仕方で共にいるということです。インマヌエルであるお方は、最初から十字架で罪をあがなう神に他ならないのです。
こうしてインマヌエルの中で生かされるとき、私たちは罪人であるにもかかわらず神の子であり、我意の主張に生きる人間であるにもかかわらず、神のご意志に喜んで服する人間です。もちろん、地上にあるかぎり、私たち人間の我意は無くなりはしませんが、イエスさまにおいて実現した神の救いのご意志の方が決定的に大事であり、喜ばしいことです。このようにして、マタイ福音書は、クリスマスの秘儀を明らかにしました。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れました。神が人間に臨んでくださったという厳粛かつ喜ばしい恵みで心がいっぱいだったからです。やがてマリアが男の子を産むと、神が命じられたとおり、《その子をイエスと名付けた》のです。私たちも、ヨセフにならって、救いの御言葉を聞いて、その救いの神に喜んで聞き従う信仰に歩みたいと思います。