Sola Gratia

待降節第1主日 説教

目を覚ましていなさい

36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

イエスさまは、十字架につけられて死に、三日目に復活し、そして四十日後に天に昇られました。それによって、今のこの世界に目に見える仕方ではいなくなりました。しかしそのイエスさまが、今いる天の父なる神のもとから、いつかもう一度この世に来ることが約束されています。しかし、《その日、その時は、だれも知らない。・・・ただ、父だけがご存じである》。私たちはもちろん、天使たちもイエスさまご自身すらもそれを知ることは許されません。イエスさまの再臨ということは、歴史を超えた次元のことなので、歴史の中に位置づけることはできないのです。すなわち、時間と空間の次元にしかいることができない人間にとって、その出来事の時期と様態は知ることができない性格のものなのです(使徒1章7参照)。イエスさまもその時がいつであるかは示していません。それはいつのことかと来臨の時を知ることができるという態度そのものが、人間の思い上がりだとぃうことです。

ですから私たちは、いつ帰って来るか分からない主人を待っている僕たちです。自分の主人が帰ることは知らされていても、その日を知らされていないのですから、私たちの全生涯は主人の帰りを待ち望むことへと方向づけられているのです。《だから、目を覚ましていなさい》。忠実で賢い僕として、主人の留守の間その家をしっかりと守り、主人がいつ帰って来ても良いように備えていなさいということです。

イエスさまの再臨を信じるというのは、イエスさまの父なる神のこの世界に対する支配を信じることです。その再臨は、またたく間にすべての人が分かるような仕方で起こります。そのとき、イエスさまの大いなる力と栄光が現れて、すべての人がそれを認め、その前に跪くことになるのです。

この世界は神の意志によって支えられており、そしてみ子イエスさまがもう一度来て、今は隠されているその栄光と力とが顕わになり、その支配が完成することによってこの世界は終わります。それはこの世界にとっては滅びであり破局ですけれども、同時に神の支配の完成、つまり神の国の完成です。つまり神の支配の完成こそがこの世の終わりであると信じることです。それを信じて待つことが、イエスさまの再臨を信じるということなのです。そして逆にそれを信じないというのは、この世界は、そんな神の導きなどではなく、私たち人間の思惑によって動いているのだ、だからその中で自分も、自分の思い通りに、自分がしたいように生きるのだと思うことです。そこに、忠実な僕と悪い僕の違いがあります。そしてそれこそが、目を覚ましている者と眠り込んでいる者との違いです。

ですから、目を覚ましているとは、目に見えない、隠されている神の支配、イエスさまによる救いの恵みを信じ、そしてイエスさまの支配の確立による救いの完成がいつか与えられるという希望に生きていることです。眠り込んでいるとはその逆に、この世の目に見える現実しか見ることなく、神の支配と恵みを信じることなく、イエスさまに希望を置いていないことです。私たちは、自分が目を覚ましているのか、それとも眠り込んでしまっているのかを、このことによってこそ顧み、吟味してみなければなりません。

ここで、イエスさまは、その時に備える心構えを教えるために、三つのたとえを語ります。洪水のたとえと、二人の人のたとえと、泥棒のたとえです。

第一に、イエスさまは「ノアの洪水」を引き合いに、再臨の日が突然来ることを説明します。創世記6章〜9章に描かれているノアの時代の大洪水は、堕落した人類への裁きとしてもたらされたものとされています。その日に備えて、神の指示に従って箱舟をせっせと築いたノアの一家とそこに入れられた動物たちは救われました。後に教会は、その箱舟をキリストの体である教会を予告するものと受け止めました。

しかし、人々はこの裁きの到来を信じませんでした。そして、安穏と暮らしていたところに突如として洪水は訪れたのです。イエスさまの再臨による世の終わりもそのように起ると告げられます。しかし、ここで大切なことは、ノアは神からの示しを受けて、どこにも水などない野原の真中で巨大な箱舟を造っていたわけで、人々はそれを見ていたということです。つまり彼らには、終わりの到来の徴が与えられていたのです。しかし彼らはそれを見ながらも、何を馬鹿なことをやっているんだとしか思いませんでした。《食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり》という表現は、いかにも当時の人々がのん気に暮らしているような印象を受けますが、それは人が生きていくために必要なことです。つまり、当時の人々は日々の自分たちの暮らしに一生懸命だったのです。そういう日常の生活の中で、徴が与えられていたにもかかわらず、人々は、神の意志によってこの世は終わり、すべてのものが滅びるのだということを、つまり神の支配を見つめようとしませんでした。神が主人であり、自分たちはその僕であることを思わず、自分が主人であるかのように錯覚してしまった。そのようにして、魂が目覚めているのでなく、眠り込んでしまった。そのために彼らは滅びてしまったのです。

第二の譬は、二人の人にまつわる話です。まず、畑にいる労働者が例に挙げられています。地上では条件がまったく同じだった二人の男に、正反対の運命が訪れました。《ひとりは連れて行かれ》、つまり天に引き上げられ、《もう一人は(地に)残され》ます。この両者を分けるものは、イエスさまの再臨に備えて生きていたかどうか、ただその一点です。

次に、臼をひいている二人の女についてです。当時、麦を石臼でひいて粉にするのは女の仕事でした。一緒に力を合わせて働いていた二人のうち、一人は天に引き上げられ、一人は地に残されました。そして、自分がどういう人生を歩んできたか、神と共に歩んだか、神なしの人生を選んできたかを悟るのです。イエスさまは、《だから、目を覚ましていなさい》と言います。これは、自分の中に神の働く余地を持っているということです。

三つ目のたとえは、「泥棒」に関するものです。泥棒というのは公然とは盗みを行いません。自分がいつ盗みに入るかを教えてくれる泥棒はいないでしょう。人が油断している時を見計らって、不意を襲うのです。新約聖書の随所で、再臨は盗人のようにやってくることが語られています(Ⅰテサロニケ5章2~6、Ⅱペテロ3章10、黙示録3章3、16章15)。

マタイ24章の全体を読むと、イエスさまは、世の終わりが近いことを思えということと、この世はすぐには終わらないことを思えという、矛盾することを語っています。しかしこの両方のことが同時に語られるところに、この24章でイエスさまが教えておられることのポイントがあります。つまり私たちは、イエスさまの再臨によるこの世の終わりを待つ者なのです。待つというのは、それが近いことを覚えているということです。それが「目を覚ましている」ということでもありました。しかしまた、イエスさまの再臨を見つめ、待つことは、そのことによって日々の歩みがおろそかになったり、日常の生活に手がつかなくなったりしてはいけません。私たちは、この世界がいつか終わるものであることを信じて歩みます。すべてのものには終わりがあり、滅びがあります。私たちの命もそうです。人生にも終わり、死があるのです。世の終わりを見つめるというのは、そういうすべてのものの終わりを見つめ、自分の人生の終わりである死を見つめることです。しかしそれは、どうせ死んでしまうのだから好き勝手に生きればいい、ということではありません。私たちは、終わりを見つめるからこそ、この世界を、この人生を、今日という日を、誠実に生きるのです。それは、私たちが見つめ、待っている終わりが、単なる破局、滅びではなく、イエスさまの再臨による神の恵みの支配の完成だからです。私たちの、この世における労苦が、そこでこそ報われるからです。この世界は、そのような神の支配の完成へと向かっていることを信じるからこそ、私たちは今この時を、忍耐と希望に生きることができるのです。