聖霊降臨後第11主日 説教
狭い戸口から入れ
- 2019年8月25日(日)
- 聖霊降臨後第11主日
- ルカ13章22~30
22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
イエスさまはさまざまな教え、さまざまな御業を行いましたが、ルカは繰り返し、それらはエルサレムに向かって進んで行く途上のことであったと書き記します。イエスさまの御業と御言葉とは、イエスさまの十字架と復活の出来事との関連の中で受け取るようにと告げているのです。
ある人がイエスさまに、《主よ、救われる人は少ないのですか》と尋ねました。当時のユダヤ教では、神が最終的に世界を裁かれるとき、「救われる者は少ないのか、それとも多いのか」という問題が熱く議論されていました。ラビ(ユダヤ教教師)たちは、イスラエルは頑迷な反抗者を除いて全員が救われると教える傾向にありましたが、神が世界を裁く終わりの日が迫っていると説くユダヤの思想家たちはイスラエルの中の少数者だけが救われると主張していました。
イエスさまはその質問に対して直接に、救われる者は多いとか少ないと答えるのではなく、その質問の立場そのものを覆すような答え方をします。この質問者は、終わりの日に神が世界を裁くとき、救われて神の国に入る者は多いのか少ないのかと、自分はそれを第三者の立場で問題にしています。そのような見方に対して、イエスさまは救いとは客観的に考察するものではなく、自分が救いに入れるのかどうかという、きわめて主体的な問題であることを教えます。自分が救いに入るのかどうかが問題であって、救いに入る他の人が多いか少ないかは問題になりません。
イエスさまはその質問者だけでなく、この問答を聞いている人たち一同に、このことを教えるために、《狭い戸口から入るように努めなさい》と言います。「狭い戸口」から入るかどうかは自分の問題であって、自分が入れるように「努める」ことだけが問題です。そのことを強調するために、「入ろうとしても入れない人が多い」という事実がつけ加えられます。
ここで「努める」ということを誤解してはいけません。私たちが神の国に入るのは、神の恵みによるのであって、私たちが努力して積み上げた善い業によるのではありません。この「努める」は、救われるための資格を積み上げるための努力を指すのではありません。救われて入る神の国は、次の14章に出てくる「大宴会のたとえ」に描かれるように、宴会の主人がその場にふさわしくない(資格のない)人たちを迎え入れてくださる宴会です。私たちはその招きを拒むことなく、宴会がいつ始まってもよいように備えていること、目覚めていることが求められているのです。私たちはこの世の中に埋没して、眠りに陥りやすい者ですから、たえず「努める」必要があるのです。
《家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである》。「神の国」に入ることが「戸口から入る」という比喩で語られたことをうけて、戸口は夜には閉められることから、この比喩は、戸口が閉められる前に、戸口から入るように努めよ、という終末的な勧告になります。この勧告は、神が世界を裁く終わりの日が迫っているのだから、その日が来る前に、今戸口が開いているうちに、悔い改めて神の恵みに身を投げ入れ、「神の国」に入るように強く求めています。
「狭い戸口」とは、自分独りで入ると口という意味で狭いだけでなく、あるときが来たら閉じられてしまうという意味でも狭い戸口なのです。人は神の愛に応えるためには、遅すぎてはならないということです。愛に応えるのに遅すぎてしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまうのです。生きた愛というのは、タイミングというものがある、それに応えるという切迫さというものがあるということです。親孝行をしようと思ったら、もう親はいないということがあるのです。
パウロの言葉にも《神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。》とあります。神の救いの御手を受けるには、今、今日という時を逃してはならないというのです。神の恵みをいたずらに受けてはならないというのです。
たしかに神の愛はいつまでも私たちを待ち続けてくれる愛だとも言えます。神の愛に応えるのに遅すぎるということはないとも言えます。しかしそのような神の愛、どこまでも私たちの悔い改めを待ってくださるという忍耐強い神の愛が分かったならば、私たちは今すぐその愛に応え、今日心をかたくなにしないで、悔い改めるのではないでしょうか。
自分には神の愛はまだまだ分からない、キリスト教のことはまだまだよく分からない、だからもう少し待ってほしい、というようにして、神の愛の忍耐強さを信頼して待ってもらうのならば、神の愛は遅すぎるということはないと思います。あせる必要はないし、神はどこまでもいつまでも待ち続けてくださると思います。
しかし、選民イスラエルに対して、もうお前たちには救いの戸は閉じられてしまった、お前たちは遅すぎた、とイエスさまが言われる時はどういう時なのか。彼らは遅くなって戸をたたき、《「ご主人さま、どうぞあけてください」と言うと、主人から「あなたがたがどこからきた人なのかわたしは知らない」》といって、拒否されてしまうだろうというのです。そして、その人々はその戸を閉じられたときに、《わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたは私達の大通りで教えてくださいました》と言うだろうというのです。イエスさまはたしかにユダヤ人の中で人生を送られましたし、ユダヤ人は身近にイエスさまの教えを受けました。しかし、神から送られたお方を拒否し、ついには殺すという最大の不義を行いました。そのような不義を行った者たちに対する主人の拒否は不可避です。家の主人は、戸口を開けていたときに入ってこようとしなかった者たちに、《あなたがたがどこから来た人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ》というと言って、もはや戸口を開けようとはしません。
そして最後に、「戸口のたとえ」の結論が明らかにされます。《あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある》。そうして選民イスラエルの民は神の国の宴会から閉め出されてしまうというのです。イエスさまを受け入れようとしないユダヤ人は父祖たちに約束されていた神の国から追い出され、世界の諸国民が東から西から、また南から来たから来て、神の国の宴にあずかるようになると言われます。
彼らが神の愛に対して遅すぎてしまう理由は、自分たちはもう救われているという特権意識をもっているからです。自分はもう選ばれているということにあぐらをかいているからです。イエスさまは、しかしそういって選民イスラエルを見捨てようとしているのではありません。この時イエスさまは、エルサレムに上ろうとしている旅の途中でした。イエスさまは何よりもあのかたくなな民、おごり高ぶった民に、最後の悔い改めを迫るために十字架の道を歩もうとしているのです。この十字架に鈍感になっていたら、今度こそ本当に見捨てられてしまうというのです。この神の愛に遅れてしまうことになるのです。自分は今のままで、なんにも悪いところがないから十字架など要らない。こう思っている人は受け入れません。私たちはイエスさまの十字架の贖いによる罪の赦しを受け入れています。ですから、私たちはイエスさまの十字架の御業のゆえに、すでに救われています。イエスさまが与えると約束してくださった神の国に向かって、一日一日歩み続けたいと思います。