聖書セミナー開会礼拝 説教
主イエスは希望の源
- 2018年10月22日(月)
- 聖書セミナー開会礼拝
- ヨハネ1章14~18
14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネ福音書を読んでいると、イエスに出会った人々の多くは、何らかの深い悩みを抱え、追い詰められていました。
たとえば水汲みの辛い仕事をわざわざ最も日差しの強い真昼の時間帯にするしかなく、結婚しても夫から責められ離婚させられ、結局7人の夫と別れて、今同棲しているという女性が登場します。あるいは38年間も病気で寝たまま過ごし、誰も顧みてくれないと嘆いている人が登場します。その他の人々にも、イエスは出会い、そして神が彼ら、彼女らの罪の赦しを宣言し、新しい可能性へと誘われました。
このようにして、イエス・キリストは相手がどんな状況を抱え、どんな立場に立っているかに関わりなく一方的に愛を注がれたのです。つまり恵みをもって、そこに神の真理を示されたのです。
そして、闇に閉ざされた人々の心に、その命に、神の光を、希望をもたらされました。人々は、そこに神の栄光を見ました。しかもヨハネ福音書の、父の独り子としての栄光というものには、極めて特徴的なイメージがあります。イエス・キリストが十字架にかけられ処刑されること、それが父なる神の独り子としての栄光を表しているというのです。
イエス・キリストが十字架に掛けられた時、左右に同じく十字架に掛けられている人がいました。彼らは、人々への見せしめとして、さらし者にされ、死を迎えるまで、人々の視線にさらされる恥ずかしさに耐えなければなりませんでした。
ヨハネ福音書は、イエスが十字架にあげられることと、復活され、天にあげられることとをひとまとまりの出来事として描いているのです。十字架においてこそ、神の栄光が明らかにしめされたと著者は語ります。
戒めの一つ一つを達成するたびに、神の賜物が与えられるという律法の教えは、確かに人をすぐれて向上させるもので、これはモーセを通して与えられました。しかし、更に祝福された神の恵みと真理は、このイエス・キリストを通して、現れました。
人は向上することを願いながらも、同時に限界を抱え、弱さを抱えています。イエスと共に最後まで行動することを願っていた弟子たちも、イエスが捕らえられてしまうと、皆逃げてしまいました。
しかし、そのような弱さと身勝手さを抱えた弟子たちにイエスはなお愛を注がれ、共に居てくださることを示されました。イエスの十字架の死も含めた全生涯が、このようにして私たちに注がれる神の愛を明らかに示しました。そこにこそ真の命が「あることを、」イエスの復活によって私たちに明らかにされました。
「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。
それは、私たちの抱える悩みと嘆きのあるところに共に神がいてくださり、そこから私たちを希望へと導いてくださるということを明らかにしてくださったということです。
そうであれば、私たちがこのイエスに出会い、命と光を創造された神の言に触れるためには、このイエスがおられるところに、私たちも出かけていくことから始めればよいということです。
あるいは、私たちが今抱える悩み、弱さ、嘆きに心を閉ざさず、むしろ心を向けていくことなのでということを示されています。この呼びかけに信頼し、応えるならば世界は一変します。
私たちの抱える弱さこそ、イエスが共に居てくださる印なのです。だから私たちは、弱さから安心して歩み始め、より良く生きることを自分のリズムで求めていけます。
私たちが挫折を経験する時、イエスが共にいて命へと導いていただく機会に会っているのです。だから私たちは、その挫折からどのような導きが与えられるかを期待しながら、今できる小さなことをないがしろにしないで大切にしていけるのです。
今、私たちの社会が抱える行き詰まりこそ、私たちが何を大切にしてい生きるのかを見つめ直す機会です。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」私たち人間の痛みのあるところ、弱さが露呈するところ、そこに共にいてくださる主イエスに私たちは会いに行き、そこから導いてくださる神の愛に委ねて、歩んでいきたいと願います。