Sola Gratia

聖霊降臨後第17主日 説教

聴覚障害の人をいやす

31それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

イエスさまが異邦人の土地を巡って、ガリラヤ湖東岸の村までやって来ました。さっそく、村人たちがイエスさまのもとへ《耳が聞こえず舌の回らない人》を連れて来ました。そして、イエスさまに《手を置いてくださるようにと願》いました。「手を置く」ことは、病気をいやす最も一般的な方法です。しかし、イエスさまはその声には従わず、《この人だけを群集から連れ出し》ました。それは、イエスさまがこの人と個人的に顔と顔を合わせて出会う中で癒やすということを示しています。イエスさまが癒やしの業を行うときのやり方は、じつに一人一人違います。病気や障害で苦しんでいる人の一人一人が、全く違った状況の中で苦しんでいるように、イエスさまの癒やしの業も、一人一人違うのです。イエスさまは、わたしたちとも一人一人違ったあり方で出会い、救いへ導いてくださるのです。

イエスさまはその人をひとり連れ出すと、《指をその両耳に差し入れ》ました。彼の目の前にはイエスさまの慈しみに満ちた御顔が迫ります。つぎに指に《唾(つばき)をつけてその舌に触れ》ます。それは、イエスさまご自身のいのちを分け与えるという、いのちの触れあいです。この人だけを連れ出したのは、人々がイエスさまの仕草に目を向けるのではなく、ここに現される神さまの御業の方に注目して欲しかったためでもあるでしょう。

このとき、イエスさまは《天を仰いで深く息をついた》と聖書は記しています。「天を仰いで」とは、父なる神に向かって祈ったということでしょう。そして、「深く息をついた」というのは、ローマ8章26に《同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです》とある、その「うめき」と同じ言葉です。イエスさまは、この耳が聞こえず舌の回らない人の苦しみ、悲しみ、そして耳が聞こえ、口が利けるようになりたい、そのすべての思いを受け取って、神に向かって《言葉に表せないうめきをもって執り成して》くださったのです。イエスさまの御業は、まさに聖霊なる神の御業に通じる執り成しの業だったのです。

イエスさまが人の病を癒やすときは、ただ奇跡を行うのではなく、その人々の病をご自分が代わりに負ったのです。それは聖書が病を癒やすということで伝えようとしているのが、罪ある人間の病を癒やすということ、罪人を救うということを言おうとしているからです。イエスさまがわたしたち罪ある人間を救うとき、ただわたしたち罪人を赦したのではなく、イエスさまが身代わりにわたしたちの罪を背負ってくださったのです。したがって、その最後はわたしたちと同じ罪人として、十字架で死んでくださったということです。

そして、イエスさまはその人に向かって《エッファタ》と言われました。これは、当時の人々が普通に使っていたアラム語の言葉で、「開け」という意味の言葉です。イエスさまが「開け」と言われると、この人は《たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるように》なりました。この人は生まれながら耳が聞こえないので言語を習得できなかった人ではなく、成人になってから何らかの病気で突然聴覚と言語器官が麻痺し、聞くことも話すこともできなくなってしまったのでしょう。

イエスさまのこの「エッファタ」(開け)という言葉は、祈りではなく、命令です。あの天地創造のとき、「光あれ」と言われた父なる神の言葉と同じなのです。つまり、ここで起きたことは、単に耳の聞こえない人の耳が聞こえるようになった、口の利けない人の口が利けるようになった、という以上のことなのです。イエスさまの「エッファタ」という言葉と共に、この人の上に、単に肉体の癒やし以上の出来事が起きたのです。天地創造において、神に似た者として造っていただいた本来の人間の姿が回復されるという出来事が起きているのです。

人の話を聞くことができる。人に向かって話をすることができる。それは、単に情報を遣り取りするということではありません。人は、言葉に自分の心を乗せて、心を伝えます。受け取る方も、その言葉に乗って伝えられる心を受け取るのでしょう。それが愛の交わりというものです。人間は、神に似た者として造られることによって、何よりも愛の交わりを形造る者として創造されたのです。しかし、この言葉をもって心を伝える、心を受け取るということは、簡単なことではありません。そのようなわたしたちに向かって、今朝イエスさまは「エッファタ」(開け)と告げるのです。

イエスさまは、この人の耳を開き、口を利けるようにした後、人々に《だれにもこのことを話してはいけない》と口止めしました。マルコ5章43で、会堂司ヤイロの娘の蘇生の奇跡のときも、これと同じ戒めを与えています。しかも、そこでも「タリタ、クム」(少女よ、起きなさい)というイエスさまのアラム語が記されています。

イエスさまが口止めしたのは、このような奇跡が宣伝されれば、人々はイエスさまを、病気を治してくれる人、奇跡をする人、そんな風にしか受け止めないからです。イエスさまが来られた目的は、すべての人を神のもとに立ち帰らせることであり、すべての人が神との親しい交わりの中に生きるようになることです。そして、そのためには、神と人間との間にある「罪」という隔たりを取り払わなければなりません。イエスさまは救い主としての使命を果たして、人間の罪という隔てを取り除くために、すべての人のために、すべての人に代わって、十字架の上で罪の裁きを受けるのです。そして、そのことによってまったき救いがすべての人に与えられることになります。その罪の代償を支払い切るまで、イエスさまは自らが救い主であることを公に言うことはありませんでした。しかし、口で言わなくても、その為す業によって、イエスさまが救い主であることは隠しようがないことであり、いくら口止めしても、イエスさまの評判はどんどん広まっていったのです。そして、そのことが、やがてイエスさまが十字架に付けられる原因ともなっていきます。

イエスさまの口止めにもかかわらず、人々はこの出来事に仰天して、《この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる》、と言って、イエスさまをほめたたえました。これは、耳が聞こえ、口が利けるようになったという出来事を見た人々が、イエスさまの業に、《そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う》という預言(イザヤ35章5~6)が成就していることを悟ったということを表しています。このように異邦人たちが素直にイエスさまを賛美する姿は、イスラエルが全体としてはその耳が聞こえなくてイエスさまを拒み退けたことに対する嘆きを一層際立てます。

そして、この神をほめたたえるということこそ、人と人との間に愛の交わりが回復されていくことの、一つの大切な筋道です。わたしたちは最初はみんな、具体的な様々な問題を抱えて、教会に集まって来ました。そして、この礼拝にあずかる中で、自らの罪に気づかされ、抱えている問題の根っこに自分の罪があることを知らされ、罪の赦しを求めるようになったのではないでしょうか。そして、罪の赦しを与えられ、神との親しい交わりに生きるようにされる中で、いよいよ隣り人との関係もまた、愛の交わりに造り変えられていくように促されました。そして、そのために神が助けてくださり、道を備えてくださることを信じ、祈る者とされていったのです。ですから、この礼拝において主をほめたたえる者は、すでにこの愛の交わりの回復という救いの道筋に立っているのです。

きょうも、イエスさまはわたしたちに「エッファタ」(開け)と告げられます。わたしたちは何を聴き、何を語ってきたかと問われます。わたしたちに語り、御心を現される神さまの御言葉を聴きたいものです。わたしたちの開かれた口をもって、そのすばらしさを語りたいものです。わたしたちの心の耳も開かれ、心の目も、心の口も開かれますように。わたしたちに与えられている救いの恵みを見上げ、今、心から主をほめたたえますように。ご一緒に祈り続けていきましょう。