Sola Gratia

聖霊降臨後第4主日 説教

断食についての問答

18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。

21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

ヨハネの弟子たちもファリサイ派の人々も断食をしていましたが、イエスさまの弟子たちは断食をしていませんでした。そこで、イエスさまとファリサイ派の人々との間で断食についての論争が起きました。きょうの個所は最初の18節が問いかけで、後の部分はすべてイエスさまの言葉で、「花婿」と「継ぎを当てる布」と「ぶどう酒の革袋」の三つのたとえを用いた答えです。

旧約聖書に定められている断食は、年に一度、大祭司が罪を贖うために特別な犠牲を献げて、神から罪の赦しを受ける「贖罪日」に定められている断食だけです(レビ16章、23章27~32など。新共同訳の「苦行」は断食のこと)。これはユダヤ暦の7月10日(今の暦の9月末から10月半ばの間の一日)に全イスラエルに課されていた戒めです。しかし、バビロン捕囚後の時代になると、民の罪の結果として国を滅ぼされ、バビロンに捕え移されてしまったことへの反省から、さらに年4回が加えられ、国民的懺悔の日として断食が守られました。

イエスさまに洗礼を授けたヨハネは、自分の弟子たちに断食をさせていました。このハネは、《らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた》(1章6)とあるように、毎日がほとんど断食のような生活をしていたのです。そしてこのヨハネが告げたのは、マタイ福音書によれば、《悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな》(3章8~9)という、大変厳しく悔い改めを迫るものでした。ですから、洗礼者ヨハネとその弟子たちにおいては、断食は「悔い改めのしるし」として重んじられたわけです。

また、ファリサイ派の中でも厳格な人々は、週に二日断食をしていました(ルカ18章12)。木曜日はモーセが律法を授かりにシナイ山に登ったことを記念して、月曜日はモーセが律法を授かってシナイ山から下ったことを記念して行われたようです。ですから、この断食は「悔い改め」というよりも、「律法を覚えて」ということでした。このように、ヨハネの弟子たちもファリサイ派の人々もどちらも断食していましたけれど、その意味合いはずいぶん違っていました。しかし、そのような違いよりも、人々の目には、断食をしているか、していないか、ということの方が目についたのでしょう。

イエスさまはしばしば断食して祈ったことが記されていますが、弟子たちには断食を求めませんでした。むしろ、イエスさまは弟子たちと、またさまざまな人々と、共に食事することを喜びました。この断食についての問答の前にも、イエスさまと弟子たちは、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていました。どうしてイエスさまと弟子たちは断食をしなかったのか、イエスさまはこう答えています。《花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない》。イスラエルでは結婚して子をもうけることは男子の神聖な義務であって、婚礼は重視されていました。飲食し、歌い、踊る華やかな婚宴は一夜だけでなく一週間も続きました。その間、婚礼の客は経札をつける義務や週二回の断食を守る義務から解放されていました。イエスさまは、この結婚式にたとえて、自分たちは断食しないのだと言ったのです。婚礼に客を招くのは花婿です。その花婿とは、イエスさまです。イエスさまはここで、ご自分を花婿にたとえることによって、わたしがまことの救い主だと言われたのです。婚礼に招かれた客がなすべきことは断食ではなくて、花婿の到来を心から喜び祝い、祝いの宴席に着いて飲み食いすることです。そのようにして、花婿であるイエスさまが来られたこと、それによって神の国、つまり神の支配による救いの実現が決定的に近づいたことを心から喜び祝うことです。

しかし、イエスさまはこうも言いました。《しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる》。この「花婿が奪い取られる時」というのは、イエスさまが十字架につく時のことを指すのは明らかです。このイエスさまの十字架に直面するとき、わたしたちは断食します。イエスさまの十字架はわたしの死です。わたしはイエスさまと共に十字架につけられて死にました。この自分の死の告白が断食です。初代の教会で復活祭の前と洗礼式の前に断食が行われましたが、これはどちらもイエスさまの十字架の死を覚え、身に受けることを告白する行為でした。復活の主イエスさまと共に生きる喜びは、十字架に合わせられて自己が死んでいる場においてのみ実現します。断食についてのこの問答は、福音のこの奥義を指し示しているのです。このイエスさまの答えの中に、イエスさまの弟子として生きるとはどういうことなのかがすでに示されているのですけれども、そのことがさらに二つの短いたとえ話で示されます。

一つは継ぎ当てのたとえです。《だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる》。新しい布はまだ硬いので、古くて弱くなっている布に硬い布を当てると、かえって弱い布を傷めることになるという話です。

断食というのは、それまでの古い生活習慣の継ぎ当てのように考えることができます。立派な、敬虔な生活にほころびが出ないように、良い生活習慣、つまり断食とか祈りとか施しとか、自分の信仰の生活に継ぎを当てます。見た目にも良いもので補完しようとするのです。ひょっとすると、信仰も同じように考えているかもしれません。自分の生活がより良いものとなるために、教会で聖書の話を聞いて、自分の生活にちょっと良いものを継ぎ足す。けれども、イエスさまと共に歩んで行こうとしたなら、自分の生活にちょっと良いことを付け足すというようなことでは収まらないのです。それは、ちょっと継ぎ当てに使おうとしようものならば、その人の生活をダメにしかねないほど、生き生きとした力強いものなのだということなのです。それは、その後のぶどう酒と革袋のたとえの中でも明確に語られます。

《新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ》。この「ことわざ」はもともとは、新しいぶどう酒は発酵が続いているのでガスが発生して、弾力を失った古い革袋に入れると袋が破裂してしまう、だから弾力のある新しい革袋に入れるべきだ、という意味です。その「ことわざ」をイエスさまは用いて、信仰のあり方、神との関わり方を示しているのです。ここでの古いぶどう酒とは、ファリサイ派の人々が考えていた、厳格に律法を守って救われようとする信仰のあり方でしょう。そして古い革袋とは、その考えに基づいて律法を細かく規定して、それを何一つ違反しないように生活するという信仰生活でしょう。それに対してイエスさまは、そういうことではないのだと否定されたのです。

新しいぶどう酒とは、救い主が来たという喜びであり、祝いのお酒だということになるでしょう。さらに、イエス・キリストの十字架によって与えられる罪の赦しということになります。律法を守るという自らの正しい業によって救われるのではなくて、イエスさまの代償の十字架によって救われる、ただその救いの恵みを信じる信仰によって救われるという福音です。これこそ新しいぶどう酒なのです。そして、それを容れる新しい革袋とは、救われた者としての喜びの業、感謝と賛美とをもって行う祝いの業ということになるでしょう。

《新しいぶどう酒は、新しい革袋に》とは、イエスさまによってもたらされている新しい救いを受け止めるために、あなたがた自身が新しくなりなさい、ということです。それは、神の救いにあずかるのにふさわしい立派な人になれ、ということではありません。イエスさまが十字架の死をもってわたしたちの罪を贖い、わたしたちを神の子としてくださった、その無償の恵みを喜び祝い、そしてそのイエスさまがもう一度来てくださり、今は隠されている救いを完成してくださることを待ち望みつつ生きる。それこそがわたしたちの備えるべき「新しい革袋」なのです。

わたしたちがその新しい革袋となるために神が備えてくださっている場がこの主の日の礼拝です。わたしたちはこうして主の日のたびごとに教会に集まって一緒に礼拝を守ります。そして御言葉を聞き、聖餐にあずかることによって、私たちは新しい革袋となり、そこにイエスさまが注いでくださる新しい喜びのぶどう酒によって生かされていくのです。