復活後第5主日 説教
互いに愛し合いなさい
- 2018年5月6日(日)
- 復活後第5主日
- ヨハネ15章11~17
「11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ》。なんという良き知らせでしょうか。けさ、わたしたちがここに集まっているのは、このイエスさまの選び、わたしたちの思いを超えたイエスさまの招きによるのです。それは、ただ神の御業が顕わされるため、土の器に過ぎない者に、イエスさまの恵みが豊かに注がれるためです。
イエスさまは、わたしたちを選ばれましたが、わたしたちの中には神の子とされるにふさわしい所などありません。自分勝手で、人の痛みが分からず、傲慢なわたしたちです。わたしたちの中に選ばれる理由がないにもかかわらず、イエスさまは愛のゆえにわたしたちを選んでくださいました。そして、自分は神の子、神の僕とされるにふさわしくないことを知ることこそ、キリスト者になるのに不可欠なことです。わたしたちは誰一人として、神の子とされるにふさわしい者などいません。しかし、イエスさまはわたしたちを愛してくださり、わたしたちを選んでくださり、「わが友よ、わたしと共に生きよ」と招いてくださったのです。この招きの御声を聞く者は、「主よ、感謝します。あなたの友としてわたしを生かしてください」と応えるしかありません。そして、そのように応える者がキリスト者です。わたしたちがイエスさまの友となる前に、イエスさまがわたしたちの友となってくださったのです。
《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》、とイエスさまは言います。この13節は直訳すると、「人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていない」となります。確かに、友のために自分の命を捨てるほどに大きな愛はないのですけれど、イエスさまは、これより大きな愛はだれも持っていない、という言い方をしています。この言葉は、「しかし、このわたしは友であるあなたのために十字架の上で命を捨てる。わたしはそれほどまでにあなたを愛している」という、イエスさまのわたしたちに向けた愛の宣言です。
ですから、このイエスさまの言葉は十字架の言葉なのです。イエスさまは見返りを求めない無償の愛で弟子たちを愛し、彼らに永遠の命を与えるために十字架にかけられてご自分の命を捨てられました。その十字架の上からわたしたちに語りかけておられるのです。「友よ、わたしはあなたを愛している。このわたしの愛にととまって生きよ」、と告げておられるのです。
「この愛に生きよ」。これが、《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい》、という御言葉の意味です。ここでは、自分の気の合う仲間との親しい交わりというような狭い意味での友情ではなく、あらゆる隣人との間で結ばれる愛の関係が求められているのです。イエスさまを抜きにして、自分の中にある愛で互いに愛し合いましょうというようなことではありません。それが《わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである》、との御言葉につながるのです。愛のないわたしたちが十字架のイエスさまの前に立って「互いに愛し合いなさい」との御言葉を聞くとき、わたしたちは「愛を与えてください」と祈り、願わざるをえません。その祈り、願いを父なる神は必ずかなえてくださいます。そうイエスさまが約束してくださったのです。
この「何でも願うものは与えられる、かなえられる」との御言葉は、《わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう》(14章13)、《あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる》(15章7)、《はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる》(16章23)、と何度も繰り返されている御言葉です。イエスさまのわたしたちに対するとても大切な約束です。しかし、この約束は、自分の願望が何でもかなえられるというようなことではありません。隣人との間で愛の掟が生きて働くという真の実りを実らせて行くために必要なことは何でも与えられるのだということです。わたしたちは、イエスさまが語る愛に生きる、愛をもって互いに仕える者とされているのです。
《わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである》とあるように、イエスさまはわたしたちを「友」と呼ばれます。イエスさまが信仰者を友と呼ぶときに見つめられているのは、神の選びです。イエスさまとわたしたちとの関係は、肉親の兄弟関係とは違って、初めから結ばれているものではなく、イエスさまの方が積極的な愛をもってわたしたちを選んでくださったものです。そこには、揺らぐことない確かさがあります。これは、一方的ということからすれば、主人と僕(しもべ)の関係です。たしかに信仰者にとってイエスさまは主人です。けれども、そのような主従関係を前提にした上で、友と呼ぶと言うのです。なぜなら、イエスさまは、父なる神から伝えられたことを、すべて包み隠さずわたしたちに伝えたからです。友が僕(しもべ)と違うのは、主人が何をしているかを知っているということです。イエスさまは、父から聞いたことをわたしたちにすべて知らせているのです。すなわち、愛の掟を知らせているということです。ただ掟の言葉を教えたというだけでなく、事実、イエスさまが友となってわたしたちのために十字架で命を捨てるという出来事を通して、神の愛を知らせています。そのような友とされているからこそ、わたしたちもイエスさまの説く愛の業に励むことができるのです。
このことを知っている者として、わたしたちは出かけて行って実を結ぶことを求められています。実を結ぶとは、「互いに愛し合う」ということです。それは具体的に、夫婦、親子、友人、同僚、地域の人たちとの関係を、「互いに愛し合う」交わりにしていく責任がわたしたちにはあるということです。そのためにわたしたちは選ばれたのです。《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ》との御言葉は、《あなたがたが出かけて行って実を結び》と続いています。わたしたちが何のふさわしさもないのに神に選ばれ、神の子、神の僕、イエスさまの友としていただいたのは、わたしたちがイエスさまの十字架の前に立って、感謝と喜びのうちに、愛をもって互いに仕え合う交わりを形作っていくためです。そのことこそ救いが完成へと向かって行くことに他なりません。
《互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である》。この命令は、わたしたちをまことの喜びへと導く喜びの言葉であり、まことの命へと招く命の言葉です。《これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである》、とイエスさまは言われました。イエスさまの喜びとは、父なる神と一つであるという、永遠の愛の交わりにある喜びです。この喜びにわたしたちをあずからせようと言うのです。
ヨハネ15章の「ぶどうの木のたとえ」は、わたしたちに明確な自己認識を与えています。《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である》(15章5)。《わたしはあなたがたを友と呼ぶ》。イエスさまは、わたしたちに、木であるイエスさまにつながる枝であり、イエスさまの友であるという、明確な自己認識を与えておられるのです。このイエスさまとの愛の交わり、関係の中で与えられる自己認識は、共に、同じようにイエスさまに愛された者との関係をも生み出していきます。イエスさまに選ばれ、友とされているのは、「わたし」という個人ではなく、「わたしたち」という群れなのです。イエスさまに友とされた者は、イエスさまの愛によって結びつけられて、その愛に生きる交わりを形成する共同体の一員なのです。イエスさまは、わたしたちを、御自身につながる者と認識させ、その愛によって互いに結び合う者として用いようとされているのです。
愛することを知らず、自分のことしか考えることができないようなら、わたしたちは何を手に入れても、本当に生きることはできません。命を失うのです。わたしたちは、神に愛を与えてくださいと祈りつつ、お互いに豊かな実を結ぶ者とされていきたいと思います。