Sola Gratia

復活後第4主日 説教

ぶどうの木と枝のたとえ

1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

イエスさまは、《わたしはまことのぶどうの木》と言われます。「ぶどうの木」を神の民イスラエルの象徴として用いるのは、旧約以来の伝統です。神が、神の民イスラエルを愛し、御自身との深く豊かな交わりを求めることを、農夫が豊かな実りを求めてぶどうの木を植え、手入れすることにたとえているのです。しかし、イスラエルは良い実を結びませんでした。神と深い信頼によって結ばれる愛の交わりを作ることをせず、他の神を求めました。また、エジプトとかアッシリアの軍事力に従いました。

しかし、イエスさまは、「わたしはまことのぶどうの木」と言われます。これは、「わたしは、神と真実な愛によって結ばれた者であり、神の求める実りをつけるぶどうの木である。イスラエルという古い、良い実を結ばないぶどうの木ではなく、良い実を豊かに結ぶ、新しいまことのぶどうの木である」、という宣言です。そして、イエスさまは《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ》と言って、わたしたちがイエスさまにつながっていることが大事であると教えます。

なぜ、イエスさまにつながることが大事なのか、その根拠は、きょうの個所の前後にある御言葉が明らかにしています。《わたしがあなたがたを愛したように、(あなたがたも)互いに愛し合いなさい》(13章34と15章12)。これはイエスさまの十字架の言葉です。イエスさまは、わたしたちの罪を贖うために身代わりになって命を捨ててわたしたちへの愛を示してくださった方だから、わたしたちはその木につながっていることが大事なのです。「ぶどうの木のたとえ」は、わたしたちがイエスさまとの深い、確かな交わりの中に置かれているという、恵みの現実を告げているのです。《まことのぶどうの木》であるイエスさまを愛し、信じて、イエスさまにつながる者は、この「まことのぶどうの木」の枝だと言ってくださっています。つまり、イエスさまとわたしたちの命が繋がっていて一つであることを示しているのです。それは、わたしたちがイエスさまの中に生きることであり、イエスさまがわたしたちの中に生きるということです。わたしたちはすでにキリストのからだの一部なのです。

このたとえは、また、わたしたちは神が求める実りを豊かにつけることになっているという約束の言葉でもあります。では、この豊かに結ぶ実とは何を指しているのでしょうか。旧約の伝統から考えるならば、それは神を愛し、神を信頼し、他の神々に膝をかがめず、神の御心を示した律法に従う歩みをするということでしょう。イエスさまは、これを別の表現で、《あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる》、と言い変えています。イエスさまは、わたしの結ぶ実は、わたしが栄光を受けるものではなくて、父なる神が栄光を受ける、神がほめたたえられることになる実りなのだと言っているのです。わたしたちが立派な人になって、大きな事業を成功させて、あの人はすごいと人に言われることが、わたしたちの実りではないということです。

また、先ほど引いた、《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である》という、この御言葉がわたしたちの中に宿るとき、イエスさま御自身がわたしたちの中に宿って、わたしたちを互いに愛し合う者として育み、導いてくださいます。この「互いに愛し合う」という交わりが形成されることこそが、イエスさまによって与えられる実りなのだと言って良いと思います。家族が、友人との関係が、またこの教会における交わりが、互いに愛し合うという具体的な姿をとっていく。それがわたしたちのつける実りなのです。ただし、この「互いに愛し合う」という交わりは、たんに仲良くしていきましょうということではなく、イエスさまにつながることによってしか与えられない交わりです。それは、進んで、喜んで重荷を担い合う交わりであり、自分のことしか考えることができないわたしたちが、イエスさまと出会い、変えられることによって、形作られていく交わりなのです。

さらに、《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい》という、この御言葉がわたしたちの中に宿るとき、イエスさま御自身がわたしたちの中に宿って、わたしたちに願いを起こさせ、わたしたちに祈りを与えます。《あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる》、とイエスさまは言われました。その願いは、わたしたちの内に働くイエスさま御自身が望まれることとして、イエスさまは《わたしがかなえてあげよう》(14章14)と明言されます。

さて、イエスさまにつながってるということは、教会につながっていることだとも言えると思います。教会につながるとは、礼拝を守り続けることだけではありません。日々の祈りの生活、聖書に親しむ生活を抜きにすることはできません。そのような営みの中で、イエスさまとの交わりがいよいよ確かなものとされていることに気付いていくでしょう。イエスさまと一つにされているならば、それは必ず実を結ぶのです。それは、ぶどうの木から枝に水や養分が送られるように、わたしたちにもイエスさまから信仰と希望と愛が、喜びと平安が、注がれるからです。

イエスさまはここで続けて、はっきりと、《わたしを離れては、あなたがたは何もできない》と言われました。イエスさまと離れてしまえば、わたしたちは何もできないのです。わたしたちの中には何もないからです。良い人になろうと努力しても、実を結ぶことはできないのです。確かに、仕事も商売も、イエスさま抜きでできるでしょう。しかしそれは、神が求め、神の栄光が現れる実りではありません。この実りは、この世での成功とは何の関係もないのです。この実りは、わたしたちを永遠の命へと、神の国へと導いていくものです。たとえ人の目には小さく、意味のないものであったとしても、神の愛に動かされ、愛するために喜んで自分の知恵と力と時間と労力をささげていくなら、それが豊かな実りなのです。

きょうの個所には、《わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう》とあり、また、《わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる》ともあります。自分の日々の歩みを省みて、こんな自分は取り除かれ、捨てられるのではないかと不安を持たれるかもしれません。しかし、この言葉は、取り除かれる人と取り除かれない人に二分されると論じているのではありません。わたしたちの誰にでも、その人の内には良い実をもたらさない部分があります。ですから、農夫である神は枯れ枝を切り取ったり、込み合った花房を間引いたりして、わたしたちが必ず実を豊かにつけることができるようにと、手入れをしてくださるということなのです。

神は必ず豊かな実をつけることができるように導いてくださっているのです。この神の手入れがなかったならば、どうしてわたしたちがこうして主の日の礼拝を守ることができるでしょうか。わたしたちが今ここにいる。このことがすでに、神の手入れ、配慮、導きの御手の中にいるということの、確かな「しるし」なのです。そうである以上、わたしたちは必ず実を結ぶことになっているのです。わたしたちの中に聖霊として宿られるイエスさまが、わたしたちを御心にかなう者へと造り変え続けてくださるからです。

農夫である父なる神が、あなたを手入れしてくださいます。そして必要な栄養と祝福はイエスさまという木から毎日毎日、絶えることなくいただくことができるのです。わたしたちは安んじて、それぞれ遣わされたところでなすべき務めに励んでまいりましょう。