四旬節第5主日 説教
最後の呼びかけ
- 2015年3月22日(日)
- 四旬節第5主日
- ヨハネ12章36b~50
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。/主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。/こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。/わたしは彼らをいやさない。」
イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
ヨハネ福音書は、「しるしの書」と「栄光の書」の二部から成っており、それに序文(1章1~18)と結びの章(21章)が付くという構成になっています。そして、「しるしの書」(1章19~12章50)は、奇跡集であって、イエスさまの行なわれた様々なしるしと、それに付随した形で、イエスさまによる説話と対話が集められています。これに続く「栄光の書」(13章1節~20章31節)は、受難物語であって、受難と復活を通してイエスさまが受ける栄光が記されています。
これで分かるように、きょうの福音は「しるしの書」の結びにあたります。最初の段落(37~43節)では、著者ヨハネによるイエスさまの行なわれたしるし(不思議なみわざ)の結末が記され、次の段落(44~50節)では、イエスさまご自身のみ言葉のまとめが記されています。
《イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された》。イエスさまが群衆の間から立ち去るのは、まさに「人の子が栄光を受ける時が来た」からです。ユダヤ人に逮捕され、ローマ人に十字架刑を言い渡され、すべての人によって十字架に上げられ、処刑される時が来たのです。これ以後、イエスさまはもはや群衆の前に現れて呼びかけることはなく、13章以降では、弟子たちだけに奥義を語られることになります。
《このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった》。イエスさまの生涯を総括すると、それは、「彼らはイエスを信じなかった」ということになります。イエスさまの生涯は、人間の不信仰に直面した、とまとめることができます。ヨハネは、イエスさまの多くのしるしを見ても人々が信じなかったことに、預言者イザヤの言葉の実現を見ています。
《主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか》。この言葉は、「主の僕の歌」として有名なイザヤ書53章の冒頭の言葉です。この歌は初代教会において、イエスさまが受難のメシアとして贖いの業を成就したことを預言する旧約聖書の大切な預言だと受けとめられていました。預言者イザヤは自分が示されて民に伝えた「主の僕」の姿が、あまりにも人間の思いを超えたものであることに驚いて、誰もそれを信じることがないのではないかと予感してこう言ったのですが、ヨハネはそれを自分が告げ知らせる十字架に上げられたイエスさまをユダヤ人が信じなかったことの預言とします。
人々の心の中にある王・メシア・救い主とは、力をもって外国勢力を追い払い、民族国家を樹立し、経済を?栄させてくれる王のことです。しかし、神の御心は、実は、人々の罪をすべて一人の人間に負わせて裁き、そのことを通して人々の罪を赦すことにあるなどとは考えようもないことなのです。それは、イザヤの時代もイエスさまの時代も同様です。そしてそれは現代でも変わることはありません。その現実をヨハネは指摘します。人は誰も、自分が罪人だとは思わず、思わないから罪の赦しを自覚的には必要としません。必要としないから、人々は期待はずれのメシアを追放し、抹殺します。その事実はいつの時代も変わりません。
《イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである》。誰も信じることができない苦難の僕・メシアを通して、実は神の栄光が現れ、メシアの栄光が現れているということです。ヨハネが、イザヤの二つの預言を引用し、イザヤは「イエスの栄光を見た」と言う時、それは苦難の僕の中に実は神の御心の実現、一人の人の死を通してすべての罪人の罪を赦し、新しい命を与える救いを成し遂げるという御心の実現を見たということです。そして、それは紀元前八世紀のイザヤの時代にも、ヨハネの時代にもほとんど誰も分からなかったことです。しかし、ヨハネにとって、イエスさまはまさにイザヤが預言した苦難の僕なのです。
しかし、そういうメシアの到来を告げても、その言葉は無視され、誤解され、拒絶されるだけです。ただ、ごく僅かな人々、聖なる種子として選び立てられたごく僅かな人々にだけ、その言葉は受け入れられ、受け継がれていくのです。ですから、やはり主の言葉を語らなければならず、そのために派遣されなければならないのです。
そもそもイエスさまご自身がそうでした。イエスさまは、人間となって人間に語りかけ、人間となって人間の罪の贖いとして人間に殺されなければなりませんでした。しかし、実はそのようにして神に裁かれ、その実、人間の罪に対する神の裁きを貫徹しなければならない。そのようにして神を現す、神の愛、神の栄光を現さねばならないのです。しかし、その愛、その栄光を見ることができる者はごく限られた者なのです。
《わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである》これが、イエスさまの最後の呼びかけです。44節からのこの段落は、全体として、この福音書の基本的な主張をまとめています。すなわち、イエスさまこそ神からこの世に遣わされた方であり、この方を信じることが救いであり、永遠の命であるという使信です。ここには、今まで出てこなかった言葉はほとんどありません。繰り返し表れてきた言葉ばかりです。
十字架に上げられた方こそが実は救い主であることを信じる信仰は、神が人に与えてくださるものです。苦難の僕こそが救いをもたらすメシアであること、十字架に上げられた方こそが実は救い主であることを信じ、その主に従うという信仰は、神の賜物なのであって、私たちが自分の力で獲得するものではありません。だから私たちが今、こうしてイエスさまを礼拝できるということは、まさに神の恵みとして与えられていることで、ただただ感謝と讃美を捧げる以外にはないことなのです。「誰が信じえようか」と言うべき知らせを、私たちは聖霊を与えられることを通して信じることができるようになり、そして、この信仰の道の中に永遠の命があることを、まさに体で感じ取ることができます。これは、やはり奇跡と言うべきことです。
そして、その奇跡が、弟子のペトロに起き、他の弟子たちにも起き、またパウロにも起きていくことを通して、神の言としてのイエスさまは、その人々の命の代償として宣べ伝えられ続けたのです。そのようにして語られてきた言葉が書かれていき、聖書となり、今もイエスさまを語り続けているのです。
《わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く》。聖書の言葉は、まさに裁きの言葉です。救いと滅びを分ける言葉なのです。イエスさまご自身が神であり、その言葉は神の言葉だからです。その言葉こそ命であり、光だからです。その命の光を受け入れなければ、自ら死の裁きを下すことになってしまう。そういう言葉として、イエスさまは今もこの世に来ておられ、闇の中の光として輝いておられるのです。そうして、今、私たちも、その光の前に立っているのです。神に招かれているからです。イエスさまは、《わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た》と言われ、また、《光のあるうちに、光を信じなさい》(36節a)と言われます。そこにこそ、永遠の命があるからです。
《なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている》。「父の命令は永遠の命」です。それは、私たちが、自分の思いによって裁き、命を奪うために用いる命令ではありません。神が、イエスさまによって、私たちの罪を赦し、死を超えた命を約束してくださっているということ示しつつ、命を命じる命令です。この神の言葉の故に、私たちは、真に、自らの罪を悔い改めつつも、真の命に生きるものとされるのです。そこで命じられている死を超えた命に支えられて歩む時、心から自分自身と隣人を受け入れつつ、喜びをもって歩む者とされるのです。