Sola Gratia

四旬節第3主日 説教

神殿宗教の克服

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

《ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した》。

ユダヤ人の男子は年三回、過越祭・五旬祭・仮庵祭に「正式の礼拝」を守らねばならない、と申命記16章16に定められています。「正式の礼拝」とは、エルサレム神殿における犠牲奉献のことです。律法の規定によれば、シナゴーグにおける礼拝は、犠牲を伴わないので、正式の礼拝とはみなされないのです。

過越祭は、三大祭りの中でも最も重要な祭りであって、むかしイスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭りです。エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、屠った小羊の血を入り口の二本の柱と鴨居に塗ったイスラエルの家だけは「過ぎ越し」、それによってイスラエルの民はエジプトを脱出することができたのです。陰暦ニサンの月の15日、太陽暦で言えば3月末から4月初め頃の満月の日に、イスラエルの人々は小羊を屠って焼き、種なしパンとともに食してこの救いの出来事を祝います。この祭りは7日間つづきました。

イエスさまはこの祭りの直前まで、ガリラヤ地方のカファルナウムに滞在していましたが、過越祭が近づいたので、弟子たちとエルサレムに上られたのです。神殿の境内では牛や羊や鳩が売られ、両替人たちはお金のやり取りを行なっていました。

神殿は、至聖所と聖所からなる本殿と境内の庭でできています。本殿に一番近い境内地は「祭司の庭」で、その外側に「イスラエルの庭」があります。ユダヤ人男性だけが入れる場所です。そこに祭壇があって犠牲の奉献が行なわれます。その外側に「女性の庭」があって、さらにその外側の、本殿から一番遠い場所が「異邦人の庭」となっていて、その一角に動物を売る店や両替する店がありました。そこで売られていた牛や羊や鳩は神殿で犠牲を捧げるための動物たちです。また神殿に献金するには外国の貨幣を用いてはならず両替をする必要があったため、両替商が発達したのです。これらの商売は、遠方から集う巡礼者たちの便宜のために、律法でも許可されていました(申命記14章24~26)。

商売自体は罪ではありませんが、商売は神礼拝ではありませんから、イエスさまは商人たちを排除しようとします。縄をなって鞭を作り、地面を打ちたたきながら、すべての羊や牛を神殿の境内から追い出し始めました。両替人たちの金をまき散らし、その腰掛を次々とひっくり返していきました。イエスさまは叫びます、《このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない》。このイエスさまの激しい言動は、神殿祭儀を否定する預言者的な象徴行為であると見られます。広大な前庭からすべての動物や商人をイエスさま一人で追い出すことは実際上は不可能で、この行動は庭の一隅で行われた象徴的な行為であると見るべきでしょう。

この出来事はすべての福音書が書き記しているもので、ふつう「宮清め」と呼ばれています。他の福音書による「宮清め」では、イエスさまが旧約聖書から引用して、《わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである》(イザヤ56章7)と語ったと記されています。けれどもヨハネ福音書では、弟子たちがイエスさまの行動を目の当たりにして、《あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす》(詩編69編10)という御言葉を思い出したと記されています。「あなたの家」つまり神殿において、人が神をまことに礼拝する者となることへの願い、熱意が自分の身を滅ぼすことになると言うのです。この詩編は、神を信じる信仰のゆえに、迫害を受けて苦しむ信仰者の苦悩をうたった歌です。弟子たちがこの御言葉を思い起こしたということは、この信仰ゆえに苦しむ義なるお方というのは、イエスさまご自身にほかならないということです。つまり、まことの神礼拝が回復されるためには、義しい者がいわれのない迫害に苦しみ、それによって罪にまみれた人間の神殿礼拝の姿が贖われ、救い出されなければならないことが語られているのです。ヨハネにおいてはよりはっきりした形で神殿礼拝は否定され、新たにされなければならないことが示されています。まことの礼拝は、神の独り子が十字架に苦しむことによって、このお方が死の中から甦ることによって初めて実現するのです。

《ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた》。

「父の家を商売の家」としているのは、すなわち信仰と祈りを犠牲動物を買うことと両替をすることで代用させてしまっている張本人は、商売人や両替人たちではありません。彼らを手先に使って、神殿を一大集金マシーンと化している神殿の支配階級をこそ、イエスさまは糾弾しているのです。

動物の売り買いや両替は、もともとは神殿の外、神殿の東側にあるオリーブ山で行なわれていました。人々はそこから身代わり獣とともに神殿に上り、その獣の頭に手をおいて祈りをささげました。これは人が無傷の犠牲の献げ物の頭に手を置くとき、自分がその犠牲と一体となること意味します。それはまた、自分の罪を献げ物に移すことであり、自分が罪深い存在であることを神のみ前に認めることでもありました。その上で犠牲は「男性の庭」に設けられている祭壇で焼かれてささげられました。清い動物の献げ物を神にささげることによって、その献げ物が聖なるものとされ、神のものとして神に受け入れられる。人と犠牲がひとつとされることを通して、その罪から清められ、その人が神に受け入れられる、すなわちその人の罪が赦され贖われる。これが犠牲の祭儀本来の意義です。それがイエスさま当時には、動物の売り買いや両替の店が境内に移されて、境内でお金を払うことで拝礼が済むように効率化されていたのです。両替するときにそこで神殿税が徴収され、動物の売り買いが行なわれるだけで、按手の祈りも行なわれず、人と動物との直接の関係が断ち切られました。犠牲それ自体の売り買いが、人の内面の祈りから切り離されて、贖罪の祭儀として認められるようになったのです。

境内から商人たちを排除するイエスさまの過激な行動に対して、ユダヤ人指導者たちは怒りをこめて問い詰めます。《あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか》。そこで与えられる言葉ははっきりと神殿礼拝を否定しています。《この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる》。この神殿とはイエスさまご自身の体のことだったとヨハネは証します。神殿の建物ではなく、イエスさまの復活が主題であることを示しています。私たちがまことの礼拝ができるのは、本来神に真実な礼拝を献げることなどできない反逆の子である私たちが、まったくの汚れなき小羊、イエスさまの苦しみによって贖い出され、神の子とされる恵みに与かったからにほかなりません。そこでユダヤ人たちは言います、《この神殿を建てるの四十六年もかかったのみ、あなたは三日で建て直すのか》。当時のエルサレム神殿はヘロデの神殿と呼ばれています。この神殿はバビロン捕囚から帰還して建てた貧弱な建物でしたが、ヘロデ大王が堂々たる建築に建て直したもので、着工したのは紀元前20年です。イエスさまが「宮清め」をしたのはそれから46年経過した年の過越祭のときでした。工事はまだ続いて、完成したのは紀元64年です。

イエスさまの弟子たちも、エルサレム神殿が立派に作られていることに満足し、これをほとんど賛美せんばかりでした。それに対し、イエスさまは神殿の壊れる日が来ると言っています(マルコ13章1~2)。ここで言われる神殿は、ご自身の体のことであると弟子たちは後日悟りました。しかし、この神殿それ自体も滅亡する日が来る、と言っているのです。これも後日分かったことです。イエスさまが紀元70年のエルサレムの滅亡を預言していることは福音書の多くの個所から分かります。

ご自身の体が神殿であるとはどういう意味でしょうか。第一は、大転換が起こって、エルサレム神殿による神礼拝は廃止されるということです。それはローマ軍によってエルサレムが壊滅したからだけではありません。むしろ、イエスさまの体による犠牲の成就である十字架の出来事のゆえに、獣の犠牲によって成り立っていた旧約的礼拝は廃止されるということです。

第二に、イエスさまのささげたまったき犠牲に基づいて、私たちは、獣の犠牲の繰り返しであり、また犠牲を献げる者の良心をまっとうできない礼拝を離れて、獣を屠って祭壇にささげるのでなく、自分自身の体を生きたままささげる礼拝を行なうということです。

《イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた》というのが、きょうの福音の結びになっています。「イエスの語られた言葉」とは《三日で建て直す》との御言葉です。弟子たちはその成就を見て信仰が固くされました。

イエスさまの体が神殿となり、その内で犠牲がささげられているのなら、イエスさまの御霊を宿す私たち一人ひとりも、自分の内で犠牲をささげる小さな「神殿」となります。イエスさまという神殿にお詣りすることは、私たち自身がイエスさまの御霊を宿す小さな神殿になることです。私たちも自分の体を神殿として礼拝を行なうのです。