Sola Gratia

聖霊降臨後最終主日 説教

すべての民族を裁く

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

きょうの福音は、「羊と山羊のたとえ」として良く知られた話です。しかし、この話はたとえというよりも、羊と山羊を分ける羊飼いを象徴として用いて、「人の子」として来臨される主が民を裁かれる様子を語る終末説教です。そのため、聖書の小見出しも「すべての民族を裁く」となっています。ここで語っているのは、もはやたとえの中の羊飼いではなく、「王」です。すなわち、栄光の位に座して世界に来臨される「人の子」です。

羊と山羊は、一見同じような姿をしていますが、性質はずいぶん違うようです。羊飼いは、羊と山羊を分けて扱わなければなりません。羊飼いは、夕方に群れをまとめて帰るとき、羊と山羊を分けて連れて帰ります。そのように、終わりの日に来臨される「人の子」は、王なる審判者として、「すべての国の民」をみ前に呼び集め、二つに分けて別々に取り扱います。一方の群れに対しては、《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい》と語りかけ、他方の群れには、《呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ》と宣告します。このような表現は、神の来臨と裁きについての伝統的な表現あって、審判の様子そのものを伝えることは、このたとえの主眼点ではありません。重要なことは、民が二つに分けられる基準です。マタイはこのたとえでそれを語りたいのですし、私たちもその点をしっかり聴かなければならなりません。その基準は、私たち自身の今の生き方を問いかけているものであって、他の人たちがどう裁かれるかを単なる知識として教えようとするものではありません。

王は祝福された者たちに、《お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ》と言っています。ところが、このように言われた「正しい人たち」は、「いつ、そのようなことをしたでしょうか」と問い返しています。すなわち、彼らは主にそのような愛のわざをしたとは自覚していないのです。主は彼らに言います、《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》。

一方、呪われた者たちに王は言います、《お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ》。彼らも「いつ、それをしなかったのでしょうか」と反問します。彼らにも主は同じように、《この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである》と答えます。

マタイがこのたとえ話で言いたいことはこの一点です。すなわち、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことであり、しなかったことは、わたしにしなかったことである」ということです。「この最も小さい者の一人」に愛の業をしたかしなかったかで、すべての人間は神の審判の場で二つに分けられるというのです。それは、この「最も小さい者の一人」はイエスさまの兄弟であるからです。イエスさまはご自分を「小さい者」と一つにしているのです。

イエスさまは地上におられるとき、ユダヤ教社会では「罪人」と呼ばれて疎外されていた人たちを「貧しい人々」と呼び、彼らと食事を共にして、彼らの仲間となって歩まれました。このような人たちを、ここでは「小さい者」と呼んでいます。その「小さい者」の姿が、具体的に「飢え、渇き、旅にあり、裸であり、病気であり、牢にいる」と描かれます。そのような状態の人は、必要なものすら持たず(あるいは奪われ)、社会では無力な者として苦しめられているのです。イエスさまはそのような人たちとご自分を一つにして、「わたしの兄弟」と呼ぶのです。

それゆえ、この「最も小さい者の一人」にしたことは、イエスさまにしたことになるのです。このような愛のわざをするということは、この「最も小さい者の一人」を受け入れていることを意味するので、「小さい者」に愛のわざをすることは、すなわち「小さい者」と一つであるイエスさまを自分の中に受け入れているのです。そして、イエスさまを受け入れる者は、イエスさまを遣わした父を受け入れているのです。このことは、マルコ9章37にも、《わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである》という形で伝えられています。

また、イエスさまの名のために「小さい者」になしたどのように小さい愛のわざも必ず神からの報いを得るということが、別の語録で伝えられています。《はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》(10章42)。マタイは、このような語録を基にして、このマタイ独自の「羊と山羊のたとえ」を形成したと考えられます。このたとえによって、ややもすると観念的な空想に陥りがちな終末についての思想が、愛という福音的な原理に包摂されることになり、その後のキリスト教の展開に大きな影響を及ぼすことになったのです。

このたとえ話においても、この「神の恵みによる救い」という福音を見落としてはなりません。と言うのも、このたとえ話をそのまま読めば、私たちの人生は、困っている人たちを助けたか否かという基準だけで測られる、つまり、隣人愛が救われるかどうかの基準だと思いかねないからです。しかし、この話をよく読んでいけば、ここで否定されているのは、信仰義認ではなくて、むしろ行為義認であることが分かります。ここで大事なのは、王が右側の人たちにいわれた言葉です。《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい》と言われていることです。つまり、羊の方に分けられた人たちは、「小さい者」に親切にしたから救われたのではありません。人はイエスさまの十字架の贖いによって一方的に罪が赦され、救いが用意されていたのです。神の喜ばれる良いわざは、神を信じることであって、自分が救われるために行う隣人愛のわざではなかったのです。

それに対して、山羊の方に分けられた人たちは、《主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか》と言っています。彼らは目の前にいる「小さい者」が、イエスさまであるとは思いもしなかったのです。もし、それがイエスさまだと分かっていたら、どれほど手厚く世話したことかと言うのでしょう。彼らは自分が救われるためならば、どんな行為をもいとわない覚悟を言っているのかもしれません。このように、彼らは救われるのは良い行いによると考えていた人たちなのです。しかし、パウロが《全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない》(Ⅰコリント13章3)と言っているように、もし、私たちが自分が救われるために、なにか親切をするとするならば、どんなにみじめな愛のわざになってしまうことでしょうか。

ここで、私たちはイエスさまの十字架によって救われている者として、「小さい者」を受け入れて愛のわざを行うことこそ、神に受け入れられる義なる行いであることを知ります。きょうのたとえ話は、《あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》(ルカ6章36)という「神の恵みによる救い」にあずかる私たちの生き方を具体的に説いてくれているのです。憐れみ深さにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちですが、イエスさまにおける神の深い憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがあるのです。