Sola Gratia

聖霊降臨後第23主日 説教

十人のおとめ

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

《そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く》。

最初のキリスト者たち、初代教会の人たちの願いは、《アーメン、主イエスよ、来てください》(ヨハネ黙示録23章20)でした。イエスさまの来臨を待ち望むのは、キリスト教信仰の基本的なあり方です。救いの完成の日、終わりの時を待ち望みながら、私たちは生きるのです。私たちのこの世における生活は、不安と誘惑にみちています。しかし、その中で、滅びることのない主の約束を信じて、忍耐と希望をもって、終わりの時を待ち望みつつ生きるのです。

救いの時を花婿が到着した婚宴のたとえで語ることは、預言者以来の伝統です(イザヤ62章5)。また、イエスさまもご自身を花婿にたとえています(9章15)。きょうの福音は、「イエスさまの来臨」を婚礼の宴への花婿の到来という比喩で語り、その時に備える心構えを「十人のおとめ」の姿を通して教えようとするものです。

ユダヤにおける結婚式の習慣はかなり私たちのものとは違います。しかし、どの民族であっても、結婚式が「喜びの場」であることは共通しています。苦しいことや辛いことが多い毎日ですけれども、その時だけは皆が心から喜び楽しむことができる。それが結婚の祝宴だったのです。イエスさまはそのような「結婚の祝宴」をたとえとして取り上げて、私たちの未来を語っています。あなたがたの未来には大きな喜びがある。あなたがたを待っている大きな喜びは、たとえて言うならば婚宴だ。あなたがたはこの上なく大きな喜びへと招かれている。そのような話をしてくださっているのです。

ここに「十人のおとめ」が出てきます。よく、この十人を花嫁だと思っている人がいますが、彼女らは花嫁ではありません。彼女らは婚宴に招かれている人々です。多くの人々が招かれます。そして、招かれた人々には役割が割り当てられます。結婚式とその祝宴のためには準備すべきことがたくさんあったからです。花嫁は、十人の友だちに花婿を迎える役目をお願いしました。それがここに出てくる十人のおとめです。《それぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く》十人のおとめは、「イエスさまの来臨」を待ち望むキリスト者の群れを指しています。

当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたと言われます。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われます。続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われるのです。そこで、花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人です。時には町外れにまで出て花婿を迎えるのです。時には花婿が遅くなることも、夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時には火をともす予備の油が必要になります。

《そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた》。

彼女らは全員等しく婚宴に招かれている人々です。すでに席は用意されています。しかし、同じように招かれていながら、その十人が、《そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった》、とふたつのグループに分かれます。

このたとえは最後に《だから、目を覚ましていなさい》という明確な警告を与えています。そして、このたとえの展開にしたがうと、この警告は結局、「油を用意している」ことを求めていることになります。油を用意していた人たちというのは、花婿を迎え、そしてさらに花嫁の家にまでお連れして、共に祝宴にあずかるその時までのことを考えて行動していた人たちです。祝宴までを視野に入れて、最終的に一緒に喜ぶことまで視野に入れて行動している。「賢いおとめたち」はそういう人たちです。

一方、他の五人は違います。その時、その場のことしか考えていなかった人たちです。夜だったからともし火は持って出ましたが、先のことまでは考えていません。今どうであるか、今どういう状態にあるか、今何が必要か、そのことしか考えていない。「愚かなおとめたち」はそういう人たちです。

この世の人々は、目の前のことにうまく対応し、その時を上手に要領よく過ごす人を「賢い人」と呼びます。しかし、そういう意味での賢い人は、要領よく対処できないような厳しい状況が長く続くと案外もろいものです。迫害の時代などには、そのような賢さは恐らく通用しないでしょう。そのような状況で大切なことは、「イエスさまの来臨」の待望を失うことなく、それがいつ起こるか分からないという緊迫感をもっていること(目を覚ましていること)と、イエスさまが来られるまでにイエスさまから与えられた使命を忠実に果たすことです。そのような人を示しているのが、この「賢いおとめたち」です。

《ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった》。

世の終わりかと思われたエルサレム神殿の崩壊(西暦紀元70年)に際しても、「イエスさまの来臨」はありませんでした。世界はそのまま存続し、悪しき者の支配する時代は続いています。キリスト者の群れは、その歴史の中を歩む覚悟をしなければなりません。

賢いおとめらも愚かなおとめらも《皆眠気がさして眠り込んでしまった》のは、「イエスさまの来臨」が遅れていると感じられ、来臨への待望が疑念や不安の中に消えようとしている状況を指します。しかし、夜も更けて、世界が眠りに沈むとき、世界が週末への無関心と無感覚に陥っているとき、まさにそのとき、花婿としてご自分の民を迎えるために、来られる「イエスさまの来臨」が起こるのです。

《真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから》。

ここで注目しなくてはならないポイントがあります。油を用意していた五人は他の五人に油を分けてあげなかったということです。人道的には明らかに間違っているでしょう。共に分かち合い、ともし火の数を減らしてでも一緒に迎えたら良いでしょう。

しかし私たちはここに、お互いの人生における厳粛な一面を見なくてはなりません。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがあるということです。人は他の人の代わりに生きることはできません。そして、最終的に神が用意した大きな喜びにあずかるのか、それともあずかり損なうのかということも、他の人が代わりになれないのです。

したがって、「賢いおとめ」になるか「愚かなおとめ」になるかは、他の人や他の何かに決めさせてはなりません。他の人が代わりに生きることができない人生を「あなたが」生きるのです。そして、その結末をも「あなたが」引き受けなくてはならないのです。ですから、自分で選ばなくてはなりません。過去に捕らわれて後ろを向いて生きるのか。今のことだけを考えて一喜一憂して生きるのか。それとも前を向いて、未来に向かって、花婿を迎える時、すなわちイエスさまの再臨を迎える時までを視野に入れて生きていくのか。それは本人が選ぶことなのです。

ある人は不幸な家庭環境で育ったかもしれません。ある人は悲しい幼少期を過ごしたかもしれません。しかし、そのことに未来を決めさせてはなりません。どう生きていくのかということを決めさせてはなりません。あるいは、誰かに傷つけられて、人生の大きな部分を損なわれた人がいるかもしれません。しかし、自分を傷つけた人に、自分の人生を決めさせてはならないのです。自分がどう生きていくかをその人に決めさせてはなりません。これからどう生きていくのかは、あなたが決めるのです。あなたが選択するのです。

もうすでに祝宴の用意はされています。大きな喜びが準備されて私たちを待っています。いつ喜びにあずかるのか、いつ花婿が来るのか、私たちは知りません。イエスさまが言われるとおりです。しかし、いずれにせよ重要なのはこれからです。待つことが長くなっても、希望を放棄してはなりません。未来に背を向けてはなりません。「賢いおとめ」として生きて、最終的に必ず神の備えた大きな喜びに共にあずかりましょう。

このたとえで、「油」とは何を指すのでしょうか。このたとえでは、いっさい示唆を与えていません。しかし、聖書では「油」は聖霊の象徴です。「油を用意していなさい」という警告は、自然に「御霊によって歩んでいなさい」と聞こえます。このたとえの主眼点は、同じく「ともし火」を用意していても、それを燃やす油を用意していなければ、主の来臨の備えにはならないという教訓にあります。福音がもたらす「信仰と希望と愛」の炎をあかあかと燃やし続けるのは、聖霊の油です。私たちは、聖霊によって「信仰と希望と愛」の火を燃やし続けて、主の来臨を待つように召されているのです。