Sola Gratia

全聖徒主日 説教

幸いな人

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

《イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。》

きょうの福音はマタイ5章の冒頭部分です。マタイ福音書の5章から7章までは聖書の小見出しにあるように、「山上の説教」と呼ばれる個所です。イエスさまは、「近くに寄って来た」「弟子たち」に教えられたのですが、そこには群衆もいました。きょうの個所の直前には、《大勢の群衆が来てイエスに従った》(4章25)と書かれています。イエスさまは「この大群衆を見て、山に登られた」のです。もちろん弟子たちだけでなく、群衆も付いていきました。

そこで、イエスさまの周りには二重の輪ができました。内側の輪は、イエスさまの言葉を自分自身に対する語りかけとして聞いている弟子たちです。外側の輪は、いわば外からそれを見ている群衆です。この人々はイエスさまが弟子たちに語りかけるのを見ています。イエスさまの言葉をある種の「教え」として聞いて、その「教え」について外側から評価します。山上の説教の最後にはこう書かれています。《イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた》(7章28)。その教えはまことにユニークで驚くべきものだ、これが群衆の評価です。

この二重の輪の構図は、いまも「山上の説教」に対して見られます。いまも山上の説教に代表されるイエスさまの教えに関心したり、感動したりする人は少なくありません。しかし、どんなに肯定的な評価を下していたとしても、その人はあの群衆の中に、外側の輪の中にいるのかもしれません。私たちがイエスさまに従おうとするならば、イエスさまの言葉を他人事ではなく、「私への語りかけ」として聞かなくてはなりません。福音書に記されている言葉は、自分への語りかけとして読まれるように書かれているのです。

《心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。》

山上の説教の第一声は幸福の宣言です。原文では「幸いなるかな」という叫びから始まっています。人はもはや不幸な人として生きることも、暗闇の中に留まっていることも必要ありません。イエスさまの言葉を自分への語りかけとして聞く人は、その「幸いなるかな」の世界へと招かれているのです。

「心の貧しい人々は、幸いである」。これは驚くべき言葉ですが、このイエスさまの言葉は私たちが考える以上にインパクトが強かったはずです。というのも、ここで言われている「貧しさ」というのは、何かが足りないという程度のことではなくて、「物乞い」を指す言葉だからです。これは何ももっていない極度の貧しさを意味する言葉なのです。 貧しければ他者によって満たされるしかありません。「物乞い」ならば、誰かに乞わなくてはなりません。イエスさまは、この物乞いするような人々について「幸いなるかな」と宣言されるのです。幸いなのは憐れみを乞う必要のない人ではなくて、頭を下げて憐れみを乞わざるを得ないような人だと言うのです。

たしかにイエスさまのもとに集まった群衆は、イスラエル社会では貧しい階層の人たちが多かったことでしょう。ですから、ルカ福音書の方では「心の貧しい人々」ではなく、《貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである》(ルカ6章20)と語られています。しかし、イエスさまはただ経済的なことだけを問題にしているのではありません。身体的、精神的な意味も含めての貧しさ、命の貧しさを言っているのです。そして、「心の貧しい人々」とは、そのことに気づいている人々、否応なく気づかされている人々のことです。

ペトロたちは大金持ちではなかったでしょうが、生活に不自由するほど貧しかったわけではありません。彼らはイエスさまについて行けば、極貧生活から脱出して豊かになれると思って従い始めたのではありません。ルカ福音書によれば、ペトロはイエスさまに出会ったとき、ひれ伏して《主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです》(ルカ5章8)と言っています。彼は神との交わりを生きることができない者だということを自覚させられたのです。たとえ生活レベルに満足していたとしても、神との交わりの中に生かされる豊かさとはほど遠い。その点における貧しさを知り、実は自分は飢えた存在であることを知ったのです。その貧しい現実からの解放を切望するその思いが、イエスさまを求める彼の態度に表れているのだと思います。ヨハネ黙示録3章17もこう言っています。《あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない》。

イエスさまは神との関わりを本来の正しい姿に引き戻して完成させるために登場されました。イエスさまは一切を神との関わりで見ておられます。ですから、イエスさまが「貧しい人たち」と言われるときは、神との関わりで貧しい人たちという意味です。神との関わりにおいて、誇るに足る価値ある物を何ももっていない人たちのことです。マタイが「貧しい人」に「心の」という句を加えたのは、この「神との関わりにおいて」という意味を明確にするためであったと理解できます。ここに用いられている言葉は、「霊」とも「心」とも訳せますが、本来は「霊」を意味する語です。「心」は人間の内面の精神活動を広く指しますが、「霊」はその中でとくに、神との関わりをもつ人間の内的次元を指す用語です。それで、「神との関わりにおいて」という意味を表現するには、「心の貧しい人」よりも「霊の貧しい人」の方が適切だと考えられます。

《心の貧しい人々は幸いである、天の国はあなたがたのものである》というお言葉は「恵みの支配」という新しい時代の到来を告知する、イエスさま独自の宣言です。人間の側の価値や資格とはまったく無関係に、神が何の条件もつけずに賜物として与えてくださる、神と人との新しい関わりの時代が到来したことを告げ知らせているのです。イエスさまにとって「天の支配」とは「恵みの支配」に他なりません。

「天の国」とか「神の支配」と訳されている言葉は、「王の支配」を意味する語です。神が王として支配される現実を指す用語です。イエスさまの時代のユダヤ教において、「神の支配」は二重の意味をもっていました。神は現在は律法によってイスラエルの民を王として支配していますが、終わりの日にはその律法によって世界の諸国民を裁き支配されるというのです。イエスさまは伝統的な「天の国」(神の支配)という表現を用いていますが、その中身は違います。神はもはや王として律法によって支配されるのではなく、父として恵みによって支配されます。イエスさまの「御国の福音」は、父の恵みの支配を告げ知らせているのです。

イエスさまの「幸いの言葉」は、モーセを通して与えられた契約を超えるものであり、預言者たちが終わりの日に実現すると語った事態であるという意味で、終末的な事柄を語る言葉です。しかし、それはもはや未来のことを語っているのではなく、現在の事実を告げ知らせているのです。それは「福音」という、まったく新しい言葉として理解されなければなりません。イエスさまは「山上の説教」において「御国の福音」を語り出されているのです。イエスさまの語る「幸いの言葉」こそ、「御国の福音」の核心です。

聖書の言う「幸い」とは、神の憐れみの故に罪を赦され、神を避け所とし、神をほめ称えつつ生きる、それこそが人間にとっての幸いだということです。この世の富とか名誉とか地位を持つことが幸いなのでありません。そういう意味での豊かさが、人間にとっての幸いの根拠ではないということです。自分の罪を知り、その貧しさや飢えを知り、自分の惨めさに気づいて悲しむ者こそが、神の恵みを求めて、神を待ち望むのです。そして、そういう者こそが神に受け入れられ、神を避け所として神の家に住み、心からの喜びをもって讃美できる幸いを味わうことができるのです。

私たちは、今、どういう者なのでしょうか。イエスさまの教えに関心をもちつつも群衆の輪の中にとどまる者でしょうか。自分の霊的な貧しさに気づき、イエスさまによる愛と赦しこそが自分の命を豊かに生かすと知って、弟子たちの輪に加わる者でしょうか。それは、一人ひとり異なるでしょう。ただ、私たちがどういう者であろうと、イエスさまはきょう、その私たちに《心の貧しい人々は幸いである。天の国はあなたがたのものである》と語りかけています。

このイエスさまの恵みの招きと愛をそのままに受け入れ、信じるとき、私たちはそれまでの自分に死に、新しい命に生かされていくのです。イエスさまが私たちの中に生きて働いて、私たちの惨めな保身や自己防衛の殻を内側から破ってくださり、愛に生きる者としてくださるのです。きょうも新たにイエスさまの言葉に耳を傾け、自分たちへの語りかけと聞くことを通して、私たちのために自分を捨て、十字架を負ってくださったイエスさまへの愛と信仰に生き始めることができるように祈ります。