Sola Gratia

待降節第1主日 説教

エルサレムに迎えられる

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ホサナ。/主の名によって来られる方に、/祝福があるように。/我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。/いと高きところにホサナ。」

こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

きょうは教会の暦で待降節第一主日、新しい一年が始まります。きょうの福音は、イエスさまが生涯の最後に、エルサレムに来られた場面です。この物語を通して、私たちのところに来ようとしているイエスさまとは一体どのようなお方なのか、どのようなメシア、救い主であるのかを学び、クリスマスを迎える準備としましょう。

イスラエルの人々は、メシア、救い主が来るのを久しく待ち望んでいました。その篤い思いをきょうの旧約聖書の日課はこう伝えています。

《どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、わたしに示されません。・・・あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように》(イザヤ63章15、19)。

預言者イザヤはこのように、民の罪を贖う方をもう長らく待ち続けていると訴え、いまこそ天を裂いて降って来きてくださいと切に願っています。

イザヤの時代から五百年後、今から二千年前のイエスさまの時代にも、人々は心からメシアの到来を待ち望んでいました。当時のイスラエルはローマ帝国との戦争に敗れて、外国の軍隊に占領されました。政治と道徳は腐敗して人々は重税に苦しんでいました。人々は、ダビデ王国の繁栄を再現する強いメシアが現れるのを期待していたのです。そこで、いよいよイエスさまが登場します。

《一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」。二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた》。

イエスさまの一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスさまは二人の弟子を使いに出して、ろばを調達させました。ベタニアはエルサレムの東三キロほどのところにあり、ベトファゲはベタニアよりさらにエルサレム寄りの位置にあります。エルサレムに来るというのは、他の町や村に着いたのとは異なる特別な出来事です。他の町や村に入った時にはいつも、イエスさまはご自分の足で歩いて入られたのですが、ここでは子ろばに乗って入ろうとしておられます。歩いてではなくろばに乗ってというのは、王がその乗り物に乗って来られる姿を表しています。王は凱旋するとき、馬に乗って凱旋します。

イエスさまの子ろばを調達する仕方は強引とも見えますが、これは、マタイ福音書21章4~5によれば、ゼカリヤの預言の言葉が実現するためでした。

《娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って》(ゼカリヤ9章9)。

「娘シオン」とは都エルサレムを指します。そこに「あなたの王が来る」とはエルサレムの王として、ダビデの子である救い主が来ることを示しています。「ろば」は、馬に比べて、小さくておとなしく、見栄えのしない動物です。ろばは、本来は王の乗るものではありません。王の乗り物は馬か、馬に引かせた戦車か、あるいは奴隷たちに担がせる輿のようなものです。ろばがメシアと関連して出てくるのは、このゼカリヤ9章だけです。マタイ福音書21章5はその預言を、《見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。》という引用をして、このろばが荷物を運ぶろばの子であることをはっきりと示します。子ろばは、罪の重荷を一身に背負って十字架への道を歩まれるイエスさまの姿を象徴的に表しているのです。

神が約束しているメシア・救い主は、このような高ぶることのない、柔和な王として来られるのだと旧約聖書の預言書は語っています。その預言が今イエスさまにおいて実現します。イエスさまは、まことに柔和で謙遜な王として来られたのです。

《二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた》。

弟子たちはイエスさまの命じられたとおり、子ろばを引いて来ました。その上に弟子たちは服をかけて鞍代わりにし、イエスさまをお乗せしました。そして大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷きました。これは王を迎える礼儀です。ヨハネ福音書12章13は、それがしゅろの枝(新共同訳聖書では「なつめやしの枝」)であったと書いています。それで、イエスさまのエルサレム入りの日曜日は「しゅろ主日」と呼ばれることになります。

この日がイエスさまの地上の生涯、最後の一週間の始まりでした。イエスさまがエルサレムへ入城されたのは日曜日で、その週の木曜の晩に捕えられ、金曜日には十字架につけられて殺されます。イエスさまは次の日曜の朝に復活をされました。イエスさまのエルサレム入城は、とても重要な意味をもつ出来事です。

イエスさまがオリーブ山を通ってエルサレムに入られたことも、ただ道順を示しているのではなく、ゼカリヤ14章4に《その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる》とあるとおり、イエスさまが神から遣わされたメシア、王として都エルサレムに来られたことを暗示しています。

群衆は、イエスさまの前を行く者も後に従う者も、《ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ》と歓声をあげて迎えました。人々はイエスさまをダビデの子としてほめたたえ、イエスさまはその歓呼の声をお受けになります。イエスさまは確かに、王として、王の都エルサレムに入城なさいました。ご自分が、神の民イスラエルの王であることを公に示したということです。

「ホサナ」とは、「今救ってください」という意味の言葉です。これは、救い主であるまことの王の支配と、それによる救いを求める祈りの言葉であり、また「ばんざい」という歓呼の叫びであったのです。この叫びには《我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように》という言葉が続いています。ダビデの国の復興はイスラエルの長年の悲願でした。人々は異教徒の支配から解放されて、その本来の栄光に達するのを待ち望んでいました。今その時が来たのです。

このように、エルサレムに入城されたイエスさまは、柔和で謙遜なお方、平和の使命を負う者として描かれています。ダビデ王国の?栄を再現するという、人々の期待・理想とは全く違う王の姿であり、人々の理想、期待をはるかに超えておられる方です。イエスさまは確かにまことの王としてエルサレムに来られたのですが、ローマ帝国の総督ピラトに対抗してエルサレムの支配権を獲得しようとはしませんでした。また、神殿を支配している祭司たちを追い出して神殿の主となろうともしませんでした。力によって敵を打ち破って王となるのではなくて、むしろ全ての者の罪をご自分の身に背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださったのです。ろばの子に乗ってのエルサレム入りは、この十字架の苦しみと死へと向かう受難週の歩みの始まりでした。「ホサナ」と叫んでイエスさまを喜び迎えた群衆は一週間の内に「十字架につけろ」と叫ぶようになっていきます。自分たちの願いを叶えてくれる王を期待していた、その分だけ、イエスさまの姿に失望し幻滅したのです。人々は、この方こそ自分たちの救い主だ、王だと考えました。イエスさまの弟子たちも同じでした。そして、それはまた私たちの姿でもあります。自分の理想とする、自分にとって都合の良い神を私たちは願います。神の働きを自分の意のままに、小さくする、都合の良いように解釈をする。これは人間の罪の姿です。

エルサレム入城とは、十字架と復活を通して平和を達成される平和の王の到来を告げるものです。イエスさまという王は人間の罪のために、十字架にかかられ、血を流し、人に仕える王として歩まれました。そのようにして、救いの道を切り開いて、人々の王となられたのです。その十字架への道を歩まれたイエスさまに、父なる神が復活という勝利を与え、イエスさまを神の民のまことの王として立てて、平和の主イエスさまのもとに新しい神の民である教会を立ち上げてくださったのです。

きょうの福音に登場する子ろばは、人々の罪を背負い、十字架の上でその贖いをなさるイエスさまの姿を表すものでした。イエスさまが謙った、柔和な王として来られ、そのことによって、私たちの救いが成し遂げられたことを知った私たちは、己が罪が完全に赦されているということの中で、己を空しくして、主イエスさまと人々に仕える生き方へと心を改めて、イエスさまに連なって、高ぶらず柔和に生きて、イエスさまの福音を人々に運ぶよう促されているのです。私たちは子ろばのように未熟な者に過ぎませんが、私たちの働きを「主がお入り用なのです」。