聖霊降臨後第16主日 説教
兄弟への忠告
- 2014年9月28日(日)
- 聖霊降臨後第16主日
- マタイ18章15~20
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
マタイによる福音書の中で、「教会」という言葉が出てくるのは、16章18ときょうの18章17の二箇所だけです。16章16で、ペトロは《あなたはメシア、生ける神の子です》とイエスさまに対する信仰を告白しました。これに応えて、イエスさまは《あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる》(18節)と言われました。このように、「教会」とはイエスさまへの信仰告白の上に成り立つ群れのことです。
そして、きょうの18章20に、《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》と記されています。「教会」を「教会」とするのは、二人三人がイエスさまのみ名によって集まるところに、本当にイエスさまが共におられること、イエスさまのご臨在によるのです。
《兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる》。
マタイ18章では、その「教会」がどのような群れなのかが語られます。マタイの時代、信徒の集会は「教会」と呼ばれ、その成員は「兄弟」と呼ばれていました。その兄弟姉妹の中の誰かが、自分に対して罪を犯して、自分がその被害者になることがあります。それが教会の現実です。そのときは、その人と自分と二人きりで忠告をしなさい、と言われます。「忠告」するのは難しいことです。かえってかたくなになられたり、恨みを買うこともありえます。忠告は、ルカ17章3に《もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして悔い改めれば、赦してやりなさい》とあるとおり、相手を赦すことを大前提に、隣人愛の一環としてなされるべきことであり、篤い祈りと共になされるべきことです。忠告を受け入れて罪を認め、それを悔い改める、そして「悪かった」と詫びるにいたれば、悪意や敵意が乗り越えられて、よい関係が回復します。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とは、このことです。そして、二人きりで語り合う目的は「兄弟を得る」ことなのです。
《聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい》。
当事者である二人だけで問題を解決することができないときは、二人または三人で相手の説得に当ることになります。このことは旧約聖書に語られている、裁判の公正を期すための掟にもとづいています。申命記19章15に《いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、そのことは立証されねばならない》とあるように、人に有罪の判決を下すことは、一人の証言のみでしてはならず、必ず二人または三人の証言が一致しなければなりません。そうして初めて、それが事実であると認定できるのです。兄弟との間のトラブル、罪においても、当事者どうしの間で解決がつかない場合にはそれと同じことが必要になってきます。ここでもまた、目的は「兄弟を得る」ことに他なりません。
二人または三人で説得に当っても、なお「聞き入れない」ときには、「教会に申し出なさい」と教えられています。兄弟姉妹の間での罪の問題、それによってつまずきが起ったりする場合、それは個人的な事柄に留まるものではなく、それは「教会の問題」となります。これは教会に連なるすべての者たちが、この問題を自分のこととして受け止め、担うということです。その場合でも、行われることは二人または三人の場合と基本的に同じです。罪を犯している人を説得して、悔い改めを求めていく、兄弟の関係を回復することを求めていくということです。「兄弟を得る」ための努力がなされていくのです。
ところで、きょうの福音は、「二人三人」がキー・ワードです。二人三人の間で忠告し合い、二人三人で祈りを共にし、二人三人でイエスさまの御臨在を仰ぐのです。おそらくこのような小さな交わりはイエスさまにさかのぼる「交わり」の原型でしょう。イエスさまは、三人を伴って変容の山にのぼり、三人を伴ってゲツセマネでの祈りに向かっておられます。
最初期のキリスト教の諸集会は「家の教会」と呼ばれていました。パウロが伝道したエフェソの一般的な市民の住居では、中庭を囲むように部屋がありますが、広い部屋でも10~20人くらいまでの集いだったそうです。そこにユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒も、奴隷も自由人も、男も女も、従来の宗教的な壁、社会的な身分の隔たり、性別の格差を超えてイエスさまの御霊に導かれた人たちが集まったのです。このような交わりは、メンバーが自由意志で参加できて、しかも各人が交わり全体を見渡すことができる程度の大きさです。お互いの忠告も心を合わせた祈りもイエスさまの御霊の御臨在にある礼拝も、このような交わりにあって初めて可能になります。私たちの教会も篠塚先生の指導のもとで二人三人の礼拝が続く経験してきましたが、イエスさまの心を心とする二人三人の群れを、イエスさまは決して軽しめることなく、その中に共にいてくださったのです。
さて、それでもどうしても解決ができない場合、犯した罪が指摘されても悔い改めようとしないならば、《その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい》と記されています。「異邦人や徴税人」とは、当時のユダヤ人社会では、神に背く罪人として忌み嫌われていた人々であって、ユダヤ人たちは彼等とは付き合いませんでした。その彼等と同様に見なすとは、その人をもう教会の仲間として扱わない、教会の交わりから追放するということです。これは後に「破門」とか「除名」という形で制度化されていきます。これは、教会がある人に悔い改めを求める、最終的な処置です。兄弟の間で犯された罪をうやむやのままに見過ごすことなく、それがきちんと悔い改められて、それによってお互いが赦し合い、兄弟の関係が回復されるために、このような処置がなされるのです。その目的もまた「兄弟を得る」ことです。罪に陥った人が罪を悔い改めて、赦し合いが成り立ちます。そして、兄弟の関係が回復されるならば、その処置は解除されます。
《はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる》。
罪を犯した兄弟に対処することを取り上げた機会に、赦して受け入れたり、赦さずに追放したりする権能が「教会」にあること(18節)、および集会の心を合わせた祈りは必ず聴かれること(19節)が保証され、その根拠として集会の中にはイエスさまご自身がおられることが上げられます(20節)。
この18節と同じ内容が、16章19でも語られています、《わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる》。イエスさまへの信仰を告白したペトロに対して言われた場面です。きょうの個所は、つなぎ、解く権限の委託がペトロ個人に限られていないことを証しするものです。
この言葉もまた、教会について語られています。「教会」はこの世における共同体というだけでなく、「地上で解くこと」は「天上でも解かれる」と、永遠へとつながる共同体であり、教会の門は天国への門でもあるのです。地上で人を罪に定め、罪人として断罪するか、それとも人を罪を赦し、罪から解くのか、ということが天上で、つまり神ご自身がその人の罪を赦さないか赦すかを決定づけるのだということです。神は教会にそういう重大な使命、責任を委ねておられます。神が教会、すなわちイエスさまを信じる私たちに期待し、望んでおられることは、「兄弟を得る」こと、兄弟を罪から解くことです。
なお、この18節と次の19節は共に「はっきり言っておく」という句で始まっています。この句は原文では「アーメン、わたしはあなたがたに言う」で、重要なことをイエスさまが宣言されるときによく用いられます。
《また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》。
神は教会に対して、地上で兄弟の罪を赦すことができるように、と期待されます。教会が神の望んでおられる期待に応えることができるように、二人が心を一つに求めるなら、その願いは必ずかなえられる、と言われます。心を一つに求めるとは、祈ることです。私たちが、教会の兄弟姉妹の中で起こる罪の問題を見るとき、私たちがなすべきこととは、まずは「祈る」ことではないでしょうか。教会はそのような祈りがなされる共同体です。二人または三人がイエスさまのみ名によって集まり、自分に罪を犯した兄弟との間に真実の悔い改めと赦しが実現すること、そしてお互いがお互いを兄弟として得ることができるようにと祈るのです。地上の教会で、信仰の共同体として、心を一つにして神に祈り求めることは、必ず聞き届けられます。《(なぜなら、)二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》から。原文では、この20節の初めに「なぜなら」という接続詞が付いています。弟子たちの祈りがかなえられるのは、イエスさまの名によって集う共同体に、たとえそれが私たちの教会のように小人数の群れであっても、イエスさまが共にいてくださるからです。