Sola Gratia

聖霊降臨後第14主日 説教

あなたはわたしを何者だと言うのか

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

《イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」》。

きょうの福音は、イエスさまと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行かれたときの出来事です。この地方がイスラエルの地の北の境界となります。フィリポ・カイサリアという町は、ガリラヤ地方を治めるヘロデ・アンティパスの兄弟、ヘロデ・フィリポが治める領地の都です。ヨルダン川の水源となるヘルモン山の麓であり、ガリラヤ湖の北40KMに位置します。カイサリアという名は、ローマ皇帝(カイサル)に献げられた町という意味です。同名の町が地中海岸にもあって、そこと区別するために領主フィリポの名が付け加えられています。

マタイによると、イエスさまの一行はイスラエルの北の異邦人の地を旅した後、このフィリポ・カイサリア地方でイスラエルの地に戻ってきたようです。ここから一路南下してエルサレムへと受難の旅を始めるのですが、ここでイエスさまは弟子たちにご自身の秘密を語り出されました。《このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた》(16章21)。

しかし、「受難のメシア」という秘密を語り出す前に、イエスさまはまず弟子たちがイエスさまをどう理解しているのかを尋ねられます。弟子たちは、「人々は、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだとか、預言者の一人だと言っている」と答えます。ここに挙げられている人たちは皆、旧約聖書の預言者の伝統に連なっている人々です。すでにイエスさまの権威ある教えと不思議な力ある業は広く評判になっていて、多くの人々はイエスさまを、神から遣わされた優れた教師として捉えていたのです。

《イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた》。

この問いこそ、信仰への確かな入り口であって、私たち一人ひとりにも問われている問いです。シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白をしました。このペトロの答えは、口語訳聖書では「あなたこそ、生ける神の子キリストです」となっていました。メシアとは、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書の時代に、王や祭司、預言者が神によって立てられる時、その頭に香油が注がれ、この方は神がイスラエルの民のために立てられた方だ、ということが示されました。その伝統に連なって、あなたは神に選ばれ、立てられたお方です、とペトロは告白したのです。

イエスさまの時代のユダヤ教では、神が最終的に回復されるイスラエルの栄光はダビデ王国を原型としてイメージされていました。いまイスラエルは異教の支配者の下で苦しんでいるけれども、神は必ず不信の異教徒を裁き、律法に忠実なイスラエルを救い出し、ダビデの王国のような栄光を回復してくださる。それは神が預言者ナタンを通してダビデに与えられた、彼の家と王座は永遠に永らえるという約束(サムエル下7章12~16)に基づくものです。神はダビデにために正しい若枝を起こし、「主に油注がれた者」として神の民の王とされる。その人は「ダビデの子」と呼ばれ、ダビデ王国のような栄光のイスラエルを回復するのです。

ペテロが弟子たちを代表して「あなたこそメシアです」と言った時、その「メシア」とはほぼこのような「ダビデの子」としてのメシアを考えていたはずです。ところが、この「メシア」というヘブライ語が「キリスト」というギリシア語に訳されてここに用いられていることが、問題を複雑にしています。「キリスト」というのは「油を注がれた者」という意味のギリシア語ですから、ギリシア語で書かれた福音書においてそう訳されるのは当然のことなのですが、福音書が書かれた時にはこの「キリスト」という用語は、人々の罪のために死に、三日目に死者の中から復活して万民の救済者として立てられた方をさす称号になっていました。そのため、「あなたこそキリストです」という翻訳は、この時のペテロの言葉の本来の内容から離れて、この時すでにペテロが、復活後の「イエスはキリストである」という福音の根本信条を告白していると理解されるようになります。

けれども本来この歴史的状況では、ペテロはイエスさまをユダヤ教において待望されている「ダビデの子」としてのメシアであるとしているのですから、新共同訳では、「キリスト」というギリシア語を「メシア」という元のヘブライ語にまで遡って、「あなたはメシアです」と訳しいるのです。

当時のメシア観によれば、神から油を注がれた「メシア」は、その力によってイスラエルを異教徒の支配から解放し、栄光の地位に上げる救済者です。ですから、イエスさまが「受難のメシア」、すなわち殺されるメシアの秘密を語り出されたとき、ペトロはそれが理解できず、「主よ、とんでもないことです。そんなことはあってはなりません」と言って、「サタンよ、引き下がれ」と叱責されるのです(16章21~23)。もしこの時すでにペトロがイエスさまを復活者キリストと告白しているのであれば、「サタンよ、引き下がれ」という叱責はありえません。

《すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた》。

マタイは明らかに、ここのペトロの告白を初期の教会が告白していた復活者キリストへの信仰告白としているのです。「生ける神の子」を加えたのも、イエスさまをキリストと告白する初期の信仰告白の定式に従っています。このような復活者キリストへの信仰告白であるからこそ、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言うことができるのです。そうすると、ここのペトロの告白は、「あなたはメシアです」よりも「あなたはキリストです」と訳した方がふさわしいことになります。当時のユダヤ人の「メシア」信仰の上にキリストの教会は立つことはできません。

ところがマタイは、イエスさまがペトロのメシア観の間違いを叱責されるマルコの記事もそのまま継承しています(16章21~23)。もしペトロの告白を、復活者キリストへの信仰告白として、「あなたはキリストです」と訳すと、イエスさまの激しい叱責と矛盾します。マタイ福音書では、ペトロの告白に続くイエスさまの賞賛(17~19節)とイエスさまの叱責(22~23節)は矛盾しています。ペトロの告白を「メシア」と訳しても「キリスト」と訳しても矛盾に陥ります。

このディレンマは福音書の二重性から来ています。福音書はイエスさまの伝記ではなく、地上のイエスさまの物語によって復活者キリストを世界に告げ知らせようとする文書です。福音書が物語るイエスさまの姿には、地上のナザレ人イエスさまの姿と、そのイエスさまが復活者キリストであるという告知が重なっているのです。

しかし、福音書の二重性を理解して読む者には矛盾ではありません。地上では誤ったメシア信仰のために激しく叱責されたペトロも、復活者キリストにあっては、父から御霊によって直接「神の子イエス・キリスト」の奥義を啓示された者となり、キリストの教会がその上に建てられる岩となり、天の国の鍵を持つ者とされるのです。イエスさまの祝福の言葉は、このペトロに対するものなのです。

このマタイ福音書だけにあるイエスさまの賞賛祝福の言葉を聞いてみましょう。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」という文で、「このこと」というのは、ペトロがイエスさまが何者であるかを悟り告白した内容を指しています。それは、人間の知恵や理解で知りうることではなく、天にいます父が隠されている秘密を啓示された結果です。マタイはこの言葉で、聖霊によって啓示されてイエスさまを復活者キリストと告白している教会の体験を描いているのです。そして、その体験に対する主イエス・キリストの祝福を聞いているのです。

マタイは現在の自分たち教会の体験とそれに対する主の祝福を、ペトロに代表させペトロの体験として描きます。ペトロの本名はシモンでした。このシモンがイエスさまに「あなたはメシア、すなわちキリストです」と告白したのに対して、今度はイエスさまがシモンに向かって、「あなたはペトロである」と言われるのです。「ペトロ」は、岩という意味のギリシア語です。イエスさまが話したと考えられるアラム語では「ケファ」です。シモンはイエスさまから「ケファ」という呼び名を与えられました(ヨハネ1章42)。ペトロへの祝福の言葉は復活者の顕現の場で与えられたものであるとしても、「ケファ」という呼び名自体はイエスさまが地上におられたときに与えられたものです。ここ(ペトロへの祝福の言葉)で、その名を担う者の果たすべき役割が新しく啓示されたのです。

この「ケファ」の上にキリストの民は成立する、とマタイは書いています。この岩であるペトロと共に「イエスはキリスト、生ける神の子です」と告白する者たちの群れが、ここで「教会」と呼ばれています(18節)。ペトロのこの告白は、キリスト教信仰とは何であるかを明確に示している、キリスト教会がその上にこそ建てられていく土台なのです。私たちは、イエスさまを自分の救い主と信じ、イエスさまが実現し、与えてくださる救いをいただいて、イエスさまと共に、その弟子として生きていくのです。そこに、キリストの教会が築かれていきます。この神の恵みのご支配を信じて生きる信仰へと私たちを招くために、イエスさまはいま私たちにも、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問い掛けてくださっているのです。