Sola Gratia

聖霊降臨後第10主日 説教

隠された宝

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

きょうの福音は、マタイ13章に集められた「たとえ話集」の結びの部分です。きょう読む「たとえ」はすべて、聖書の小見出しの下に並行個所を記すカッコ書きがないことで分かりますように、マタイ福音書に特有の記事です。

きょうの「たとえ」も《天の国は次のようにたとえられる》で始まっています。「天」は「神」の言い換えであって、他の福音書では「神の国のたとえ」と言われます。しかし、学者たちによれば、静的に「神の国」と訳すよりは、動的に「神の支配」と訳す方がふさわしいそうです。天の国というと、人が死んだあと行くあの世、天国のことと考えてしまいますが、このたとえで天の国とは、この世における、つまりわたしたちの日常における神の支配、すなわちイエスさまの言行を通して始まっている神の愛の働きを主題としています。

《天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う》。

きょう最初のたとえは、「畑に隠された宝」のたとえです。

昔の人にとって、盗難の危険を防ぐために金品を壺に入れて土に埋めるのが一番確実な方法と考えられました。隠した場所が忘れられたり、戦争が起こったり、家が途絶えて、そこが畑になったりということもあったことでしょう。日本でも昔話の「花咲かじいさん」に出てきますし、今でもたまに埋蔵金を発見というニュースが聞かれます。このたとえでは、事情はどうであれ、宝は畑の中に隠されていました。それを見つけた人は、小作人か使用人であって主人の畑で働いていたのでしょう。彼は大喜びで家に帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買い取ったという話です。

《また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》。

次のたとえは「高価な真珠」のたとえです。

古代には真珠の養殖はありませんでしたから、天然の真珠です。滅多に採取できない貴重な宝石でした。ヨブ記28章18に「さんごや水晶は言うに及ばず、真珠よりも知恵は得がたい」とあるように、さんごや水晶に比べ真珠がずっと高価であったことが分かります。そもそも「真珠」という言葉自体が「真の珠」、宝石の中の宝石を意味しています。古代の真珠の産地は、ペルシャ湾や紅海の沿岸でした。商人たちは、真珠を求めるために、イスラエルから遠く離れた場所へ行かなければなりませんでした。そして探していた一つのものを見つけると、やはり、持ち物をすっかり売り払って、それを買うという話です。

さて、これら二つのたとえで、「隠された宝」また「真珠」でたとえられている「天の国」とは、わたしたちの日常生活を支配しておられる神の愛の働きのことでした。それを農夫は汗して耕していた畑で、商人は遠い外国の仕事先で見つけました。どちらの人にとっても日常生活の中で彼らの宝を見つけ、喜んで《持ち物をすっかり売り払って》それを手に入れました。彼らの人生はすっかり新しい、喜ばしいものに変わったことでしょう。宝を手に入れた生活とは、神があるいは復活のイエスさまが彼らを愛し、人生を共に歩いていてくださる、彼らの人生を支え、導いていてくださる生活です。人はこの神の愛の働きを聖書に証しされたイエスさまの言動をとおして見出すことができるのです。パウロはこう言っています。《わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです》(フィリピ3章8)。ここに、全財産を投げ出して、宝が隠されている畑を買った人の実例があります。

ひるがえって、わたしたち自身にとって一番大切なもの・宝は何でしょうか。やはりお金や宝石でしょうか。《あなたの富(すなわち宝)のあるところに、あなたの心もあるのだ》(マタイ6章21)とあるとおり、あなたの心が一番大切にしているもの、それがあなたにとっての「神」です。神と名付けられていなくても、一番大切にしているものがあなたの命なら、それがあなたの「神」です。家族が一番大切なものであるなら、あなたにとって家族があなたの「神」です。それがお金なら、お金があなたにとっての「神」です。たとえ自分は無宗教だ、無神論者だと主張するとしても、実は人は何かしら心に「神」を持っているというのが、聖書の人間観・宗教観です。

今もいつも神がわたしたちの味方としてわたしたちと共にいてくださる、人生を共に歩んでくださるということこそが、地上における「天の国」であり、福音であり、何ものにもまさる宝です。古代キリスト教の教父アウグスティヌスはこう言っています。「神よ、あなたはわたしたちを、あなたに向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのもとに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』第1巻第1章)。このように、神の愛の働きにわたしたちの心の目が開かれることが、このたとえのねらいであり、イエスさまが言葉と行いで目指していたことだったのです。

「畑の中の宝」と「真珠」のたとえが示すことは、神さまの愛の働きを前提としていますが、イエスさまの恵みも父なる神の愛も畑の中、またはアコヤ貝の中のように、いまは人の目に隠されているので、人がその現実に対して心の目を開くこと、そしてその神の信実を見出したならば、それを自分のものとして体得するように努力をしていくという、人間の応答が強調されています。

しかし、そのことは、天の国に入る条件として、全財産を捨てる覚悟が必要だとか、神の救いは代価を払って買い取ることができるものだなどと誤解してはいけません。聖書の中心は、あくまでも天の国すなわち神の愛の支配は恵みの賜物として受け取るべきものだということです。神の信実に応える人の信実(信仰)は、人が自力で獲得できるものではなく、イエスさまを通して神から無条件の恵みとして与えられるものです。わたしたちは、このことをきょう三番目の「網のたとえ」で聞くことができます。

《また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう》。

このたとえはガリラヤ湖の漁を背景としています。ガリラヤ湖は霞ヶ浦とほぼ同じ広さをもつ湖です。多くの種類の魚がたくさん住んでいて、人々の生活を支えています。

このたとえでは、漁をするのは神、集められる魚は人間でしょう。神はいろいろな魚を集められます。神の愛の支配を見つけた人も見つけていない人も招いておられますし、善い魚だけでなく、悪い魚をも漏らすことなく救いに招いておられます。神は、生真面目な兄をも放蕩に身を持ち崩した弟をも、分け隔てなく愛した父のように慈悲深いお方です。放蕩息子がまだ遠くにいるのに、もう駆け出していって抱きしめた父です。そう考えると、宝や真珠は「神」ではなく「わたしたち」のことで、《出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》農夫や商人が神のことだというふうにも読めてきます。神はわたしたちを救うためにすべてを犠牲にしてくださいました。実に、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネ3章16)。

漁師が網を投げて魚を集める、つまり神が人々を天の国、神の支配へと招いておられます。今はすべての人が招かれています。イエスさまは漁師であったペトロたちに《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》(マタイ4章19)と言って、弟子として召されました。イエスさまの弟子とは、人々を神の国へと呼び集める務めを担うものです。漁師が網がいっぱいになるまでいろいろな魚を集めるように、福音を宣べ伝えて、神の国へ人々を招くのです。ここに集められた魚の群れには、良い魚の悪い魚もいます。売り物になる魚と売り物にならない魚ということであり、神の信実に依り頼む人と依り頼まない人のことでしょう。両者が混在しているということは、この世界の現実を表わしています。しかし、神の支配は隠れたままでは終わりません。世の終わりには、正しい人と悪い者たちが分けられます。それは、神のなさる御業です。わたしたちが先走って、自分の判断で悪い者を排除してはいけないのです。神への信頼と忍耐が必要です。

《「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」》。

最後にイエスさまは話を締めくくるように、弟子たちに「分かったか」と問いかけられました。弟子たちは「分かりました」と答えます。

天の国のことを学んだ学者とは、天の国の秘密を覚った人、つまり神に従うイエスさまの弟子たちのことです。そして、イエスさまを信じ、従う者は、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」のです。「新しいもの」とは、イエスさまを信じるということです。イエスさまは人間の罪のために十字架にかかられました。この事実こそ、まったく新しいもの、天の国が隠れた形ですでに地上に来ていることです。イエスさまを信じる者は皆、天の国のことを学んだ学者です。イエスさまの弟子は、神の支配への信頼の内に自由に生きることができるのです。

わたしたちもまた、神の信実・神の愛による支配という「宝」が、日々わたしたちに臨んでいることにいつも気づき、また互いに分かち合うことができるように祈りましょう。