Sola Gratia

聖霊降臨後第21主日 説教

戻って来た者

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

《イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。》

これは、イエスさまがエルサレムへと上る旅の途上の出来事です。それは十字架へ歩む道でした。ただし、イエスさまのエルサレムにおける死は、単なる殉教の死ではありません。十字架にかかって死なれたイエスさまは、復活して天に昇ったのです。それは父なる神によって天に上げられたのであり、それによって私たちのための神による罪の赦しと、新しい命に生かして下さるという救いのみ業が実現したのです。その十字架と復活による救いのみ業の完成への道を、イエスさまは歩んでおられました。

イエスさまがこの地上を歩かれた時、今のイスラエルの地域は、大きく3つに分割されていました。エルサレムを中心とするユダヤ、ガリラヤ湖を中心とするガリラヤ、そして、ユダヤとガリラヤの間にはサマリアという地域がありました。ユダヤには保守的なユダヤ人たちが住み、ガリラヤには進歩的、自由主義的なユダヤ人が住んでいましたが、その間のサマリアは、ユダヤ人と他の民族とが混合したところでした。元々旧約聖書の時代にはバアル信仰という偶像崇拝の中心地であり、新約の時代にもローマ皇帝に捧げられた神殿があるなど、ユダヤ人とは敵対関係にあるのがサマリアでした。

《ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。》

ここは以前「らい病」と訳されていました。この病気は今日の「ハンセン病」のことだと思われていたのです。しかし聖書に出てくるこの病気とハンセン病は違うことが明らかになっています。また「らい病」という名前が、ハンセン病にかかった人々が差別され、社会から疎外されて大きな苦しみを負わされてきたので、新共同訳聖書では、「重い皮膚病」と訳し変えられています。当時この病気にかかった人は、「汚れた者」と見なされ、一般の人々と共に住むことも、近くに寄ることもできませんでした。そのことは、旧約聖書のレビ記に次のように記されています。《重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない》(レビ記13章45~46)。このように、一般の人々から隔離されて暮らさなければならなかったのです。この病気は当時、体の苦しみのみでなく、精神的にもまことに大きな苦しみをもたらすものだったのです。

あとで見るように、この十人はユダヤ人とサマリア人が同じ仲間として生活していました。深刻な病に冒された人たちは「同病あい憐れむ」連帯感を持ちます。病気で大部屋に入院すると、私たちも似たことを経験します。そこでは社長も社員も関係なく、お互いにいたわり合う平等な社会が成立します。この十人がイエスさまを迎えに出ます。彼らは病のためにイエスさまに近づくことができないで、遠くに立ったまま、大きな声で力の限りイエスさまの名を呼び、憐れみを求めました。

《イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。》

その声に対するイエスさまの答えは迅速です。彼らをご覧になると、祭司たちのもとへ行って自分自身を見せなさいと命じました。この病気は、祭司たちによって「病気である」と判断され、また治った時にも祭司たちによって「治った」と判断されて初めて社会復帰ができる、というものでした。これは単なる病気と言うよりも、宗教的な汚れと考えられていたのです。だからこの病気になることは「汚れる」と表現され、治ることも「清くなる」と言い表されています。その判断を下すのは、医者ではなくて祭司なのです。イエスさまは、「祭司たちの所へ行って体を見せ、自分たちが清くなった、癒されたことを判定してもらいなさい」と言います。イエスさまのその言葉を受けて、彼らは祭司の所へ向かい、その途中で癒しが起ったのです。驚くべきことは、彼らが祭司の所へ向かったその時にはまだ癒しは起っていませんでした。この病は皮膚に症状が現れますから、癒しの目に見える事実がないのに、彼らはイエスさまの言葉を聞いてその通りに、癒されたことを判定してもらうために祭司のもとへと向かったのです。ヘブライ人への手紙11章1に《信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです》とありますが、彼らはまさにそういう信仰によって歩み、その途中で清くされたのです。もし彼らがこの体では祭司のもとに行くことはできないと考え、祭司のところへ行こうとしなかったら、彼らは清められることはなかったことでしょう。

ここには、信仰を持って生きるとはどういうことかについての大事な示唆があります。信仰を持って生きるとは、まだ現実においては起っていない、また実感されていない救いを信じて、イエスさまのみ言葉のみを頼りとして歩み出すことです。自分の望んでいる救いが与えられたら、あるいはその救いを実感することができたら信じるというのではなくて、み言葉を信じて、み言葉のみを頼りにして、目に見える現実や実感はなしに一歩を踏み出すのです。救いの事実や実感はその歩みの中でこそ与えられていきます。神のみ言葉に信頼を置き、それにより頼むという決断が信仰においては大切です。私たちの実感や、目に見える救いのしるしは後から与えられてくるのです。

《その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」》

この十人の人々は、イエスさまのみ言葉を信じて、祭司のところに向かい、その歩みの途中で癒され、清くされました。しかし、イエスさまのもとに戻って来て感謝したのは、一人のサマリア人だけでした。「ほかの九人はどこにいるのか。」これは、私たちに対する警告でしょう。

この話が意味することの一つは、癒されることと救われることは違う、ということです。十人の全員が癒され、清くされましたが、救われたのは一人だけでした。私たちは、様々な問題や悩みや悲しみ、苦しみをかかえてイエスさまのもとに来ます。私たちはその悩みや苦しみの中で、神のみ言葉を聞き、それを信じて歩み出します。その信仰の歩みの中で、悩みや苦しみからの解放を与えられます。けれどもこの話が教えているのは、それは「救われた」ということとは違うということです。かかえている問題の解決と、救いとは別のことなのです。救いとは、健康の回復とか社会復帰することにとどまりません。

それでは、救われるとはどういうことなのでしょうか。そのことを、あの一人のサマリア人の姿が教えています。彼は自分が癒され、清くされたことを知った時に、「大声で神を賛美しながら戻って来」ました。そして「イエスさまの足もとにひれ伏して感謝し」ました。イエスさまはその人に、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。その「救い」、また「信仰」とは、端的に言って、イエスさまに感謝することです。悩みや苦しみをかかえてイエスさまのもとに来て、み言葉によって何らかの解決や苦しみからの解放を与えられる、その時にちゃんとイエスさまのもとに戻って来て感謝すること、それが信仰であり、そこにこそ本当の救いがある、とこの話は教えています。救いとは、神との親しい交わりに生きることだからです。

別の言い方をすれば、イエスさまの恵みによって自分にはあれができる、このような奉仕ができる、という自分の信仰の働きを整えることよりも、イエスさまの足もとにひれ伏して礼拝をすることを、最も大事なこととして最優先にすること、つまりイエスさまとの交わりを何よりも大切なことと位置づけることにこそ、信仰による救いが与えられるのです。なぜならイエスさまこそ、私たちのためにエルサレムへの道を歩み通し、十字架にかかって死ぬことによって、私たちの罪の赦しを実現してくださった方だからです。そしてさらに、復活して天に昇り、神が恵みによって与えてくださる、死に勝利する新しい命の先駆けとなられたからです。十字架と復活の主イエスさまこそが、どうしようもなく罪に捕えられており、死の力に支配されている弱く力ない私たちを本当に救ってくださいます。そのイエスさまのもとにひれ伏して礼拝することにこそ、私たちの救いはあるのです。

私たちは今、人生の歩みの途中で、自分の歩みを中断して、イエスさまのもとに戻って来て、神を賛美し、イエスさまの足もとにひれ伏す礼拝をささげています。そしてこの礼拝において、イエスさまは私たちに、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけてくださいます。私たちはこの礼拝からこそ、立ち上がり、出かけることができるのです。様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみを背負った人生の歩みへと、難しい人間関係へと、仕事や家庭において抱えている困難な課題へと、そしてそれぞれに与えられている働きや奉仕へと、イエスさまが既に与えてくださっている救いの恵みに支えられて、出かけて行くことができるのです。