Sola Gratia

聖霊降臨後第17主日 説教

見失った羊のたとえ

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

《徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。》

15章のたとえ話は4節から始まりますが、1~3節では、このたとえ話が語られた経緯が書かれています。ルカはこの導入部を、たとえを理解する鍵として読者に示しているのです。話のきっかけは、イエスさまが徴税人や罪人を招き、食事まで一緒にしていたのを非難されたことでした。イエスさまが彼らを迎えて共にした食事は、14章における神の国の食事を先取りするようなものであり、そこには救いに相応しくないと見なされていた罪人たちが招かれ、あずかっていました。それを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは批判して言ったのです。「あんな罪人たちと一緒に食事をしている者のところになど行けるか」と。つまり彼らこそ、神の招きを断って宴会に来ようとしない人々でした。このようなファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスさまは「見失った羊」のたとえを話されたのです。

《あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。》

このたとえはまず、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」と始められています。その「あなたがた」とは、イエスさまを批判しているファリサイ派の人々や律法学者たちです。その人々に向かってイエスさまは、「自分が百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとしたらどうするかを考えてみよう」と話しかけます。そして、そのときには、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。誰でも当然そうするだろうと語りかけます。

ここで、私たちは、戸惑うのではないでしょうか。見失った一匹を捜しに行っている間、野原に残された九十九匹はどうなるのか、そこに狼が襲って来たら、などと疑問が生じるからです。残った九十九匹を守ることが大事だから、失われた一匹はあきらめるという考え方だってあり得るのです。しかし、このたとえ話は、例えば、囲いを分けあっている仲間の羊飼いに群れの番を頼むとかで、残りの九十九匹のことは心配する必要がないことを前提としていると考えるべきです。つまりこの羊飼いは、後の九十九匹のことは心配せずに失われた一匹を捜しに行けるのです。そのように考える根拠の一つは、第二のたとえ話「無くした銀貨のたとえ」との関係です。

《あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。》

この第一と第二のたとえが同じ内容を語っていることは明らかです。どちらも、見失ったものを捜して見つけ出すという話です。第二の銀貨のたとえにおいては、無くなった一枚の銀貨を捜す時に、残りの九枚のことを心配する必要は全くないわけです。この話との並行関係を考えるなら、第一のたとえにおいても、九十九匹についての心配は考えなくてよいと言えるでしょう。「残りの九十九匹はどうなるのか」という疑問にひっかかっているとこの話が語ろうとしていることが見えなくなってしまうのです。

イエスさまがこのたとえによって語ろうとしているのは、ごく単純に「あなたがたも、自分の大切なものが無くなったら、必死に探し回るだろう」ということです。羊飼いも女も、自分にとって大切なものを失いたくないから、必死に捜し回るのです。その思いは、ファリサイ派も律法学者も私たちも皆持っているものです。イエスさまは、誰の中にも当然あるこの思いに目を向けさせることによって、「神も同じ気持ちなのだ」ということを示そうとしているのです。神も同じように、ご自分の大切なものが失われていくのを、まあいいや、と放っておくのではなく、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとされるのです。イエスさまが徴税人や罪人たちを招き、迎え入れ、一緒に食事をしているのは、神のこのみ心によってです。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちは徴税人や罪人たちとは違って神に従って生きていると思っています。しかし、イエスさまの招きに応えようとせず、そのみ言葉に聞く耳を持たない彼らもまた、神のもとから失われている羊です。徴税人や罪人たちと、ファリサイ派や律法学者たちは、現れ方は違いますが、どちらも、神の群れから迷い出てしまった羊である私たちの姿を描き出しているのです。そしてこのたとえ話が語っているのは、そのような迷い出た羊である私たち一人一人のことを、神がご自分のものとして大切に思ってくださり、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとしてくださる、ということです。神はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わしてくださいました。イエスさまは、迷子になってしまっている私たちを捜し出し、見つけ出して神のもとに連れ帰ってくださるまことの羊飼いです。

このことは、私たちに対する問いかけでもあります。つまり私たちは、あの徴税人や罪人たちのように、イエスさまのもとにその話を聞こうとして近寄って来るのか、それともあのファリサイ派や律法学者たちのように、自分たちの罪を認めず、イエスさまに聞く耳を持たず、招きを拒むのか、という問いです。徴税人や罪人たちと共に、自分の罪を認めてイエスさまのもとに集い、神の国の福音を受け入れること、それが「悔い改める」ということです。

この二つのたとえ話のそれぞれの終わりのところに、「悔い改める一人の罪人については」とか「一人の罪人が悔い改めれば」と語られています。「罪人の悔い改め」ということが、この15章のたとえに共通しているテーマなのです。しかし、きょうの二つのたとえには、罪人が悔い改める、つまり心の向きを変えて神のもとに立ち帰ることを意味する部分はありません。迷子になった羊は、自分で羊飼いのもとに帰ったのではありませんでした。群れから迷い出た羊は、羊飼いが捜しに来て見つけてくれなければ、死を待つ他ないのです。そういう意味で、迷い出た羊と、命や意志を持たない銀貨は同じことだと言えます。どちらも、自分で持ち主の所に帰ることはできない、つまり悔い改めることなどできないのです。

この二つのたとえが語っているのはもっぱら、神の方が罪人を捜しに来てくださり、見つけ出してくださるということです。つまり、この二つのたとえ話は、私たちの悔い改めを可能にする根拠を語っているのです。神は、私たちをご自分の大切なものとして愛して、なんとかして私たちを滅びの淵から救い出したいと思っています。そのみ心によって、神の方から、私たちを捜しに来てくださるのです。イエスさまのご生涯、特にその十字架の死と復活に、神が私たちのことを必死に捜し回り、ようやく見つけ出し、連れ帰ってくださるというみ心が具体的に示されています。私たちは、このイエスさまのご生涯に示されているみ心に触れることによって自分の罪に気づかされ、このみ心に支えられて、イエスさまのもとに来てその救いにあずかることができるのです。つまり悔い改めることができるのです。

そして最後に、見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。また無くした銀貨を見つけた女も、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。失われていた大切なものを見出した人は、大喜びするのです。ここに語られているのは、見出され救われた羊の喜びではなくて、見出した羊飼いの、つまり神の喜びです。私たちが悔い改めて神のみもとに立ち帰ることを、神ご自身が誰よりも喜んでくださるのです。罪人の悔い改めにおける神ご自身の喜び、それがこの15章のたとえ話を貫いている中心主題です。

そして神は、一人の罪人が悔い改めて救いにあずかることにおけるご自身の喜びを、多くの人々と分かち合おうとされます。「一緒に喜んでください」という言葉が繰り返されています。これこそ、神がイエスさまを通して人々をご自分のもとに招いておられるみ言葉です。神の救いにあずかることが、盛大な宴会に招かれることにたとえられる根拠もここにあります。神が、救われる人々を招く盛大な宴会を催し、「一緒に喜んでください」と人々を招いておられるのです。この招きに応えて、この宴席に着き、神の救いの喜びにあずかり、それを分かち合うことが私たちの信仰です。