Sola Gratia

聖霊降臨後第9主日 説教

善いサマリア人

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

「善いサマリア人」のたとえは、エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える話です。きょうの個所の前には、《これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心にかなうことでした》(21節)というイエスさまの言葉があります。ここでは、その「知恵ある者・賢い者」の代表である律法の専門家が登場してイエスさまと議論します。

《すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」》

「すると」は、直訳では「すると見よ」であり、これから語られることが24節までの話の続きであることを示しています。イエスさまが語り終えると、それまでそこに座ってイエスさまの教えを聞いていた人々の中から「ある律法の専門家」が急に立ち上がったのです。「律法の専門家」と「律法学者」は違う言葉ですが、口語訳聖書がどちらも「律法学者」と訳していたように、同じ人を意味しています。彼らは律法を人々に教え、律法によって民衆を指導していた人々でした。

永遠の命を受け継ぐは、神の救いにあずかるということです。救われるためには何をしたらよいのか、と彼は問うたのです。彼の問いは、それだけ読むと真摯な信仰の問いに思えますが、実は「イエスを試そう」としているのです。永遠の命を真剣に求めているのではなくて、イエスさまがこの問いにどう答えるか、その答えを律法の専門家の立場から批判しようとしているのです。

《イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」》

イエスさまに逆に問い返された彼は、申命記6章5とレビ記19章18によって答えます。神を愛し、隣人を愛することは、律法全体の要約であり、十戒も前半と後半でこの二つのことを教えています。どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるかについては、律法の専門家も聖書に基づいて学び、また人々にも教えていたはずです。すでに自分の中に答えを持っていたのです。

《イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」》

私たちはここの読み方を間違えないようにしなければなりません。ここは、永遠の命を得るには、律法の中心である二つの教え、神を心から愛し、隣人を自分のように愛することが必要だ、それを行えば救いを得ることができる、とイエスさまがお教えになった、というふうに読むべきではありません。律法の専門家が、イエスさまを試そうとして問うてきたのに対して、イエスさまは「あなたは常日頃このように考え、主張しているはずではないか。その通りにしたらいいだろう」と答えられたのです。

《しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。》

彼はイエスさまの言葉の中に、「あなたは自分が考え主張している通りに生きていないのか」という問いが含まれていることを感じ取ったのです。その言い訳として彼が持ち出したのが、「わたしの隣人とはだれですか」という問いでした。彼は、神と隣人を愛することが律法の中心であることはもちろん知っているけれども、私が愛すべき隣人とは誰なのかが疑問だと言うのです。この問いに対する答えとしてイエスさまがお語りになったのが、「善いサマリア人」のたとえです。

《イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』》

エルサレムからエリコへ下る道は、荒れ野の道であり、強盗や追いはぎがよく出没する危険な道でした。半殺しにされて倒れている人を見ながら道の向こう側を通って行った祭司とレビ人はどちらも、神殿の礼拝を司り、それに奉仕するユダヤ人の宗教的指導者です。「律法の専門家」とは、働きの内容は違いますが、立場は似たようなものです。追いはぎに襲われて倒れている人はユダヤ人です。同じユダヤ人の、しかも信仰の指導者である人々が、彼を見捨てて通り過ぎたのです。その後、「旅をしていたあるサマリア人」が、この人を見て憐れに思い、介抱しました。ユダヤ人はサマリア人のことを宗教的な純粋さを失った民として軽蔑し、差別していました。サマリア人もユダヤ人とエルサレムの神殿に対して対抗意識を強く持っていました。先週読んだ9章51節以下には、イエスさまの一行をサマリアの人々が歓迎しなかったことが語られていましたが、それはイエスさまたちがエルサレムへと向かっていたからです。ユダヤ人とサマリア人の間にはそういう敵対関係、敵意がありましたが、彼はそれを乗り越えて、ユダヤ人であるこの人を助けたのです。

《さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」》

この話でイエスさまが一貫して問いかけているのは、「あなたは自分が知っていること、その正しいことを、その通りに実行しているか、そのように生きているか」ということです。この問いによって彼は、自分はこの教えの通りに生きていないことに気付かされたのです。

彼がここで「わたしの隣人とはだれですか」と、隣人を愛することについての言い訳をしたことは意味深いと思います。彼は、隣人を愛することができていなくても、神を愛しているつもりではいるのです。神を愛することはできているが、隣人を愛することがなかなか難しい、と思っているのです。しかし、神を愛することと隣人を愛することは不可分に結びついています。それは二つのことではなくて一つです。隣人を愛することができないということは、神をも本当には愛していないのです。そこで愛しているのは自分自身だけなのです。「善いサマリア人」のたとえに出てくる祭司やレビ人の姿はそういうことを表しています。彼らは神を愛し、神に仕えている人たちです。しかし目の前に倒れている一人の同胞に手を差し伸べることができません。それでも、神を愛していると言えるのか、とこの話は問いかけているのです。

他方、サマリア人は、倒れている人に手を差し伸べ、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。この人こそ、本当に隣人を愛している人です。ここに、隣人を愛するとはどういうことかが示されています。つまり、隣人を愛するとは、隣人になることです。律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」と問いました。それに対してイエスさまは、「隣人になった」人の話をなさったのです。隣人とは「誰か」と「捜す」ものではなくて、「なる」ものなのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」というみ言葉は、「あなたも、自分が出会う人々の隣人となりなさい」ということです。それが、隣人を愛するための道です。大切なことは、隣人になろうという思いで人と相対することです。

この「善いサマリア人」の話についても、私たちは間違って受け止めてしまわないようにしなければなりません。つまりイエスさまはここで、神と隣人を心から愛し、出会う人々全ての隣人となるならば、そのことによってあなたがたは永遠の命を得ることができる、と言っておられるのではありません。イエスさまはここで律法の専門家に、永遠の命を得るための手だてを教えておられるのではありません。むしろイエスさまは彼に、「あなたは自分が知っている教えを本当に真剣に行なっているか、そのように生きているか」と問うておられるのです。その問いがそのまま私たちにも向けられています。イエスさまの教えを理解はしていても、それを本当に真剣に受け止め、そのように生きようとせずに、言い訳に終始し、自己弁護ばかりしているような歩みに陥っていないか。

きょうの福音は、9章51から始まっている流れの中にあります。イエスさまは、十字架の死と復活と昇天との時が近づいたことを知って、エルサレムへと向かっておられるのです。十字架の死と復活と昇天によって救いのみ業を成し遂げてくださるイエスさまに従って、そのみ言葉を本当に真剣に聞き、その教えに従って生きることが、弟子たちに、そして私たち信仰者に求められているのです。

教会は、この傷ついた人を助けたサマリア人をイエスさまとして受け止めてきました。イエスさまはすでに、私たちの隣り人となってくださっているのです。イエスさまによって傷を癒され、イエスさまの身代わりによって命を得たのです。それゆえに、その愛に生かされて、私たちもたとえささやかではあっても、同じ愛に生きることができるはずなのです。大事なことは、この「善いサマリア人」の話をいつも思い起しつつ、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまのお言葉を、自分に対して語られた励まし、勧めのみ言葉として聞き、それぞれが出会う人々との交わりの中で、自分の手を差し伸べて、隣人となろうとしていくことだと思うのです。私たちがイエスさまのみ言葉を本当に真剣に聞くとはそういうことでしょう。

(この聖書講解は、横浜指路教会の藤掛順一牧師の説教録から全面的に学びました。感謝して記します。)