Sola Gratia

聖霊降臨後第8主日 説教

弟子の覚悟

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。

一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

きょうの福音は、ガリラヤ地方で活動していたイエスさまがエルサレムに向かう旅を始める大切な個所です。マルコ福音書ではイエスさまがエルサレムへと向きを変えたところ(マルコ10章17)から、エルサレムに入る(11章11)までの記事は短いのですが、ルカ福音書はきょうの個所から19章44までがこの旅の間の出来事とされています。ルカは全部で24章のうちの11章近くがエルサレムへの旅の話です。この部分は「ルカの旅行記」と呼ばれ、ルカ福音書の中心部を形成し、この福音書の特色を示す部分となっています。この部分に、マルコ福音書にはない数多くのエピソードやイエスさまの言葉を伝えています。

《イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。》

エルサレムへと向かうイエスさまの旅は、十字架に向かう旅であると同時に、「天」に向かう旅でもあります。「天に上げられる」とはイエスさまが十字架上で殺され、三日目に復活し、使徒言行録によれば四十日にわたって弟子たちに「神の国」について話した後に天に上げられることです。十字架の死から昇天という神の救いの計画が実現する時期がいよいよ迫ってくると、イエスさまは決然とその顔をエルサレムに向けられたのです。

《そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。》

巡礼者がガリラヤからエルサレムに向かう道は二つあります。南に隣接するサマリアを通る道と、サマリアを避けてヨルダン川の東側を迂回する道です。サマリアを通る道の方が近いのですが、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかったので、普通はヨルダン川東の遠い迂回路を行きました。しかし、イエスさまはあえてサマリアを通る道を選ばれました。イエスさまはユダヤ教徒とサマリア教徒を差別することなく、同じように「神の国」を告げ知らせようとされたのです。

イエスさまの時代、サマリア人とユダヤ人は対立していました。もともとは同じ民族でしたが、紀元前10世紀、ソロモン王の死後にイスラエルの王国は南北に分裂しました。北王国は首都サマリアに独自の聖所を置くようになり、エルサレムの神殿を中心とする南王国から宗教的にも分離してしまいました。さらに紀元前8世紀に北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、民の多くがアッシリアに捕囚される代わりに外国人が移住させられてきたのです。それ以来、サマリア人とユダヤ人とは、余程のことが無い限り互いに接触はしません。

イエスさまはそのサマリア人の村を通るために先に使いを出されます。彼らの務めは、取りあえずその日の宿を確保すること、または当面の旅のための食料を手に入れることでしょう。あるいは、イエスさまを受け容れるように、前もってイエスさまの名代として「神の国」を告げ知らせる働きを委ねられたのかもしれません。しかし、村人は歓迎しませんでした。サマリア人がエルサレム神殿に行く者たちを歓迎するはずはなかったのです。

そこでヤコブとヨハネはこう言います。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。この言葉は、かつて預言者エリヤが自分を捕えにきた兵士たちを焼き滅ぼした故事(列王下1章)に基づいています。しかし、イエスさまはこれをはっきり拒否しています。イエスさまはその力を滅ぼすためには用いません。その力は、人々の救いのため十字架の上で人々の命をあがなうなるためにこそ用いられます。

エルサレムへの旅の最初に置かれたこのエピソードは、イエスさまの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅であることを表しています。イエスさまは私たちに代わって私たちの罪を担い、私たちの無理解と背きの罪をぬぐい去る十字架を目指されたお方なのです。

《一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」》

イエスさまは旅の途上で、弟子になろうとする三人に出会います。その三人に対するイエスさまの言葉はいずれも厳しいものです。しかし、イエスさまの弟子にならずして、私たちは「神の国」に生きることなど出来ません。

「人の子には枕する所もない」は、人の世の生き辛さを嘆いているのではなく、イエスご自身の苦難の道を指しているのです。イエスさまたちはサマリア人の村に入ることを拒まれました。イエスさまは、いつでも行く先々で歓迎されたわけではなく、やむをえず野宿をされたことが幾度もあったでしょう。イエスさまは誕生の時すでに「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」のです。この地上に枕する所を持たない歩みは、誕生の時から始まっており、その行き着く先が十字架です。「わたしに従うということは、そういう歩みを共にすることなのだ。それがあなたに分かっているか」。イエスさまはそう言っておられるのでしょう。

イエスさまのこの言葉を聞いた人がどのような態度をとったかは、書かれていないので分かりません。その人がどうしたかではなく、いま私がこのみ言葉により、世から排斥される生涯を覚悟してイエスさまに従うかどうかが問われているのです。これは後に続く二人の場合も同じです。

《そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」》

当時のユダヤ教において、子供が父親を葬るということは、他のあらゆる義務に勝って最も大事な務めとされていました。この世の人間の営みにおいて、一番大事な務めと見なされていた行いであったのです。私たちの間でも、忌引きと呼ばれる習慣があります。親が亡くなったとなれば、無条件で学校からも仕事からも解放されて、葬りのためにもっぱら心を傾けることが認められています。

イエスさまがここで言われている「自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉は、神への感謝がなき、そして祝福と希望のない葬儀のことです。イエスさまの弟子になるということは、そういうことと決別することです。恵みなき、祝福なき、希望なき命を生きていたのが、恵みがあり、祝福があり、希望がある命に生きるようになることです。「あなたはそんな希望のない葬儀をする必要はない。むしろ死期の近い父親のもとに行って、神の国の希望を宣べ伝えよ」、イエスさまは言っているのだと思います。神の国とは、そのような恵み、祝福、希望があるところです。あなたがたは私の弟子として、そのために働きなさいと言われているのです。この道の上で家族の葬儀がなされるならば、それもまた、出て行って、神の国を言い広める場、み国への望みを新たにする葬儀となるのです。

《また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。》

列王記上19章で預言者エリヤが自分の弟子としてエリシャを召し出した物語では、家族と別れのあいさつをすることが許されていますが、イエスさまの言葉は、家族へのいとまごいも許しません。

イエスさまも、家族と別れて神の国の宣教を始めました。そして、今、エルサレムに向けての旅を始めておられます。枕する所もない旅を続け、最後には十字架に付けられるのです。それが、天の父の御心を生きる道だからです。イエスさまが残された母の悲しみを慮ることを最優先されるのであれば、とてもその道を歩むことは出来ないでしょう。でも、その道を選択することは復活と昇天に至ることであり、天に至る道を開かない限り、母も兄弟も死者によって葬られる死者になるだけです。残された者たちが泣き崩れる葬儀をして終わる命を生きるだけなのです。

父の埋葬や家族へのいとまごいは、一般的に言えば悪いはずのないことです。本当の問題は、葬儀の義務や家族へのあいさつではないでしょう。むしろ、私たちに問われていることは、イエスさまの告げる「神の国」への招きをどこまで本気で受け取るか、ということではないでしょうか。聖書の小見出しに「弟子の覚悟」とあるとおりです。

私たちが求めるべきもの、求め続けるべきもの、それは「神の国」です。この世のものではありません。この世のものだけでは私たちの命は生かされないのです。この世のものは死者による葬りで終わる肉体に関わるだけです。命を生かすものではありません。イエスさまのいう「命」は、永遠の命です。神の愛によって生かされ、神を愛して生きる命です。神の国に生きる命です。イエスさまは、その命を私たちに与えるために十字架の死に向かわれるのです。そして、私たちを招かれます。「わたしに従ってきなさい」と。

それは、イエスさまによって既に到来している神の国に生かされる喜びを求め続け、その喜びを分かち合うために生きることなのです。ですから、私たちはイエスさまの招きをいつも新たに聞き続けなければならないのです。主の日ごとに共に礼拝をし、新たに神の国に生きる者とされ、礼拝からこの世へと神の国をもたらす者として派遣される。そのことを繰り返しつつ、神の国を言い広めていく。そこに私たちの喜びがあり、希望があります。その道を歩み通す力も忍耐も望みもみな、イエスさまが与えてくださることを信じて、この招きに喜んで応えていきましょう。