聖霊降臨後第7主日 説教
ペトロのキリスト告白
- 2013年7月7日(日)
- 聖霊降臨後第7主日
- ルカ9章18~26
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」
きょうの福音は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所です。マルコ8章27~35とマタイ16章13~27に並行記事があります。ルカ福音書とマタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、少しずつ違う仕方で自分の福音書を書いています。マルコやマタイの福音書との違いにも留意しつつ、ルカのメーセージを聞きたいと思います。
《イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」》
マタイとマルコ福音書では、きょうの場面はフィリポ・カイサリア地方で起こったと記されていますが、ルカにとっては場所は問題ではなく、この時イエスさまが「ひとりで祈っていた」ことが大事なのです。ルカはさまざまな場面、とくに重大な場面でイエスさまの祈る姿を伝えています。ここでもご自分が何者あると思っているかを弟子たちに問いかけ、これからのご自分の歩みを弟子たちに予告するという非常に大切なことを行なう前にイエスさまは祈ります。私たちもイエスさまと共に祈る弟子でありたいと思います。
イエスさまについてのうわさは少し前の9章7~9にもほとんど同じ言葉で伝えられています。そこでもイエスさまは「ヨハネ」「エリヤ」「だれか昔の預言者」の再来ではないかと言われていました。これらの人々に共通しているのは、メシアが登場することを前もって人々に告げ、メシアを迎える準備をうながしたということです。
いったい「イエスは何者か」、この領主ヘロデの問いは、同時に弟子たちの問いでもあったし、また私たちの問いでもあります。私たちも聖書を読んだり、説教を聞いたりしてイエスさまのことをより深く知るにつれて、「イエスは何者か」という問いをより深く抱くようになります。この問いを大切に抱き続け、答えを求めていくことが求道であり、この問いへの答えを得ることが信仰を得ることです。
《イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」》
イエスさまとの関わりが深まるとともに、私たちは自分が問うというより、イエスさまから「私を何者と思うか」と問われるようになります。イエスさまからのこの問いを意識することが、信仰への大きな一歩です。そしてこの問いにどう答えるかが信仰の決断です。弟子たちはここでまさにその信仰の決断を求められたのです。
イエスさまのこの問いかけは、弟子たちの群れの中で語られています。私とイエスさまの一対一の関係は、教会というイエスさまに従う者の群れの中でこそ成立するのです。その意味で、ペトロの信仰告白はペトロ個人の思いであると同時に、教会の信仰の告白であると見るべきです。マタイによる福音書はこのことに焦点を当てて、このペトロの答えに続けて「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」というイエスさまの言葉を語っています。ペトロの信仰の告白こそ教会の土台であり、教会とはこの告白を共にする者たちの群れであります。それに対してルカは、「イエスは何者か」ということに焦点を当てているので、「教会」についての話はここには語られていません。
ペトロの答えは「あなたは、神からのメシアです」というものでした。「メシア」はヘブライ語で、この個所のギリシア語原文は「キリスト」です。新共同訳聖書では、この「キリスト」が称号として使われている場合は、「メシア」と訳しています。どちらも「油注がれた者」の意味で、神が決定的に世に遣わされる救い主を指す言葉です。
ペトロはこの信仰の告白によって、イエスとは何者か、という問いの正しい答えを語ったのです。イエスは神のキリストである。み言葉を語るために派遣された預言者や救い主のための備えをする者ではなくて、神が私たちのために立ててくださった救い主である。これが、キリスト教会の信仰の根本です。後の教会の土台となる信仰告白が、ペトロによってなされたのです。私たちは、このペトロの信仰告白を受け継ぎ、「あなたこそキリスト、救い主なる神です」と告白しつつ歩んでいるのです。
ここで、イエスさまが「一人で」祈っておられたとわざわざ語られていたことに立ち帰りましょう。ペトロがこの問いにあの信仰告白をもって答えることができたのは、彼自身の知恵や知識によるというよりも、イエスさまのこのとりなしの祈りによってだと言うべきでしょう。ペトロの信仰告白は、イエスさまのとりなしの祈りによって与えられたのです。私たちにおいてもそれは同じです。イエスさまご自身が私たちを、あなたこそキリスト、救い主です、という信仰告白へと導いてくださるのです。
《イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」》
マタイやマルコ福音書では、この言葉を聞いたペトロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うのですが、ルカはその言葉を書きません。しかし、ペトロを初めとする弟子たちがイエスさまの預言を理解できなかったことは、この後の記述を見れば明らかです。
イエスさまが神のキリスト、救い主であることは、神のご意志によるこの受難と復活によって実現するのです。つまり受難予告は、「イエスは何者か」という問いへの答えの一部なのです。ペトロは弟子たちを代表して、「イエスこそ神のキリスト、救い主です」という信仰告白をしました。それは正しい答えなのですが、神のキリスト、救い主としてのみ業がどのようにしてなされるのか、それを知らなければ、イエスさまが何者なのかを正しく知ったことにはなりません。イエスさまは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することによって、救いを実現してくださる方なのです。イエスさまが神のキリストであることが分かるとは、このことが分かることなのです。イエスさまが、ご自分が神のキリストであることを誰にも話すなとお命じになったのは、そのキリストが苦しみを受け、排斥されて殺されるということを伴わずに「神のキリスト」ということだけが伝わっていくと、人々がイエスさまのことをかえって全く誤解してしまうことになるからです。
ここで「~ことになっている」と訳された言葉は、「~ねばならない」とも訳されますが、これは神の計画の中で定められたことを意味しています。これは神の定めであり、それゆえにイエスさまが主体的に選び取って歩まねばならぬ道を表す言葉です。イエスさまが神の定め、神のご計画を全生涯を懸けて受け止め、そして従う。そこで初めて実現することなのです。
マルコ8章32~34やマタイ16章22~23には、受難を予告するイエスさまをペトロがいさめ、イエスさまに叱られるという話がありますが、ルカ福音書にはありません。
《それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」》
イエスさまの周りには弟子たちがいることは文脈上からも明らかですが、ここでルカは敢えて「イエスは皆に言われた」と書きます。つまり、その時その場にいた人にだけではなく、読者をも含めてイエスさまのことを少しでも知り、この方についていきたいと思うすべての人に対する言葉だと、ルカは言うのです。
マタイ、マルコ福音書では、この受難予告の後には、ペトロが「そんなことを言ってはいけません」とイエスさまを諌め、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と叱られたことが語られています。ルカはそれを語りません。繰り返しになりますが、ルカの関心が「イエスは何者か」ということにあるからです。
イエスさまご自身から「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、「あなたこそ神のキリスト、救い主です」と告白した者は、その救い主イエスさまに従い、その後について行く者となります。イエスさまは、多くの苦しみを受け、排斥され、殺されることによって救い主として歩まれました。そのイエスさまを知った私たちは、イエスさまの後について、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従っていくのです。
「日々」はルカの特徴で、マルコとマタイにはありません。十字架を背負ってイエスさまに従うことは、一生に一度のことではなく、毎日のことであることが強調されています。「自分を捨て」「十字架を背負って」「従う」はそれぞれ別々のことではなく、そのどれもがイエスさまの生き方に結ばれて生きることを指しています。
イエスさまに従っていくことの中でこそ私たちは、「イエスは何者か」を知ることができます。そして、この救い主を知ることによって、本当の自分を見出して新しく生き始めることができるのです。本当の自分を見出すとは、イエスさまの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、イエスさまの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることを知ることです。この、神の恵みによって生かされる新しい命を得ることは、自分で自分の命を救おうとしている間はできません。私たちのために十字架を背負い、苦しみを受けて死んでくださり、そして父なる神によって復活の命を与えられた主イエス・キリストに従っていくことの中で、それは与えられるのです。