聖霊降臨後第6主日 説教
罪のゆるし
- 2013年6月30日(日)
- 聖霊降臨後第6主日
- ルカ7章36~50
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
今週の礼拝は、「罪のゆるし」がテーマです。第一朗読のサムエル記下11章26以下では、預言者ナタンを通じてダビデ王の堕落と罪、そして「罪のゆるし」が語られています。そして、第二朗読のガラテヤ2章11以下では、復活したキリストに出会ったパウロが自分中心ではなく、キリスト中心に生き、キリストによって生かされていることが書かれています。
福音書では、イエスさまの足もとに近寄った無名の女性の「罪のゆるし」について述べられています。ここには、彼女の信仰と愛の心が表われていると共に、イエスさまの恵みによって彼女の命が根底から支えられていることが示されています。
《さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。》
当時のユダヤ人たちの宗教的指導者であるファリサイ派は、律法を厳格に守り、またそのような生活を人々にも教え、指導することによって、ユダヤ人たちに神の民としての自覚と自負を植えつけようとしていました。自分たちが熱心な信仰者であるだけでなく、その信仰と生活を人々にも伝え、人々を導こうとする伝道に熱心だった人々です。彼らはイエスさまの言葉や業に対して、すでに何度かクレームを着けていました。律法を守ることについての彼らの主張とイエスさまの言動とは相容れないものがあって、緊張関係を持っていましたが、中にはこのシモンのように、イエスさまを招いて聞いてみようとする人々もいたのです。
《この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。》
何の説明もなく「罪深い女」と呼ばれていますから、この女性のことは町中の人が知っていたのでしょう。彼女は娼婦だったと考えられています。
このような宴会は、プライベートなことではなくて、町の人みながそれを知っているようなことでした。招待を受けていなくても、その宴会の場に出入りすることができました。宴席に連なることができるのは、もちろん招待された人だけですが、それを見物し、そこで語られることを聞くことは誰でもできるように、宴会は人々の目の前で行われるのです。ですから、この女性もこの場に来ることができたのです。
「罪深い女」として知られる女性が、律法を厳格に守り、罪人を忌み嫌うファリサイ派の家の中に入ること自体極めて異常なことであり、大胆な行動でしたが、さらにイエスさまに近づくことは決死の覚悟を要することでした。この自分のどうしようもない状態を救ってくれるのはこの方しかいないと感じていたのでしょう。「もう生きるのが辛い。助けてください」という悲痛な叫びがこの涙に現れています。「お前は汚れている」「お前は罪人だ」という社会の目が深い罪の意識を彼女に与えているのです。彼女はイエスさまに対して精一杯の尊敬と愛情を表します。ここでイエスさまは何もしていません。彼女の思いと彼女の行為をそのまま受け入れて、彼女のするままにさせています。
当時の宴会はテーブルに向かって椅子に座るのではなく、テーブルを囲むように置かれた平らな台の上に、列席者は体の左側を下にして寝そべって、食べ物を並べた低いテーブルから右手で取って食べました。足は寝そべっている台の上で、周りで見ている人々の側に伸ばされています。ですから、「後ろからイエスの足もとに近寄」ることができたのです。
《イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。》
シモンは、罪深い女が自分の足に触れることを拒まず、そのままにしているイエスさまを批判する思いが生まれてきました。罪深い女に触れられると自分もその罪に汚れてしまう、とファリサイ派は考えていました。彼は、イエスさまが本当に神から遣わされた預言者なら、今自分に触れている女性の正体が分かるはずだ、そして、この女性に触れられても何も感じていないイエスさまは預言者とは言えない、と思ったのです。
しかし、シモンのように、あの人は罪深い人ですよ、イエスさまそんなことも分からないのですか、などと言えるでしょうか。そして、それは、私たち自身の姿になっていないでしょうか。
《そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」》
そこでイエスさまが話されたことは、借金を返せない人と、その借金を帳消しにする金貸しのたとえです。労働者の賃金が一日一デナリオンですから、五十デナリオンはおおよそ二か月分の賃金、五百デナリオンは一年半分の賃金になります。「帳消しにする」とは、金貸しが全損害を負うということであり、二人合わせて二年分の賃金に相当する額の損失を自らが負うのです。
このたとえは、なぜイエスさまが彼女の行為を受け入れているかを示しています。罪のゆるしが借金の帳消しにたとえられる個所は他にもあります。マタイ18章23~35には、主人から莫大な負債を免除されながら、仲間のわずかな負債をゆるさない僕のたとえがあります。主の祈りの中で「わたしたちの罪をおゆるしください」というときの「罪」と訳された言葉も、本来「負債」を意味する言葉です(マタイ6章12)。
人は罪を犯したとき、それを神に対する負債のように感じます。なんとかそれを自分の力で清算したいと願いますが、実はそれは不可能です。罪のゆるしとは、どうにも返すことができない借金を帳消しにしてもらうようなことです。なぜ神は人の借金を帳消しにするのでしょうか。その理由は、ここではただ一つ、「返す金がなかった」からです。罪のゆるしとは、借金で首がまわらず、そのままでは生きていけない人間をそれでも神が生かそうとすることだと言うことができるでしょう。
ファリサイ派の考えでは、借金はきちんと返すべきであり、罪は償うべきものでした。自分たちも罪を犯すが、それは償いのわざによってちゃんと清算している、と思っていたのです。しかし、この女性は負債を返すあてなどなかったはずです。そこで彼女は最後の希望をイエスさまに賭けたのでしょう。人は神に対する借金を返すことはできません。そして、それでも神はその罪びとを拒否するのではなく、その人を愛し、受け入れ、生きることができるようにしてくださる、これがイエスさまのもたらした罪のゆるしのメッセージでした。人が神とのきずなを取り戻し、人と人とが互いに兄弟姉妹としてのきずなを取り戻すことこそが父である神の望みです。シモンにそれは伝わったでしょうか。
《シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。》
二人の負債者は、借金を帳消しにしてもらいました。当然、多くの金額を帳消しにしてもらった人の方が、免除してくれた金貸しをより多く愛するでしょう、とシモンは答えます。このシモンの答えを確認した上でイエスさまは、これこそが、今ここで起っていることなのだ、と語ります。
《そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」》
「この人」とは、原文では「女」という言葉の前に「この」を意味する定冠詞だけでなく、「このような」を意味する言葉がつけられています。「町中の人々が罪人として蔑んでいる、いま目の前で泣いている、この女」「必死の覚悟であなたの家にやって来て、涙で私の足を濡らし、髪の毛でその涙をぬぐい取り、接吻して香油を塗ってくれたこの女」。この女が、今、あなたの目の前で何をしているか、それがあなたには見えるか、とイエスさま問うています。
この女性は、私をこの家に招いたあなたよりもずっと真実な、心のこもった愛のもてなしをしてくれたのだ、というのです。そこに、五百デナリオンの借金を免除された人と、五十デナリオンを免除された人との違いがあります。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と、結ばれます。
《そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。》
この物語の流れでは、女性の愛の行為が先にあり、最後にイエスさまのゆるしがあると読めますが、本当は彼女の行為を受け入れたイエスさまの姿の中に、すでにゆるしが存在していたと考えるべきでしょう。この女性が大きな愛でイエスさまを愛したことによって多くの罪をゆるされたとか、イエスさまを愛することと引き換えに罪がゆるされるというような誤解が生じないように、「彼女が多くの罪を赦されたのだということが、彼女の示した愛の大きさによって分かる」、とイエスさまは言っておられます。
私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」と言われような、イエスさまを心から愛して生きる歩みが与えられますように。