Sola Gratia

四旬節第2主日 説教

死と復活を予告する

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

《イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する》。

イエスさまは、ユダヤ教最大のお祭である過越祭に向けてエルサレムに上る途中、弟子たちにご自分の死と復活を予告しました。三度目の予告です。一度目の予告は16章のペトロが信仰告白をした後のことでした。受難予告を聞いたペトロは、「とんでもないことです」と言って、イエスさまを??りつけました。しかし、イエスさまは弟子たちに《わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》(マタイ16章24)と求めたのでした。二度目の予告は17章でガリラヤに戻ったときでした。マルコによれば、予告を聞いた後で、弟子たちは誰が一番偉いかと議論し合っており、イエスさまが《いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕え者になりなさい》(マルコ9章35)と諭されました。そして、いよいよエルサレムに近づいたとき、この三度目の予告をなさいました。このときも、ルカの平行記事よれば、《十二人はこれらのことが何も分からなかった》(18章34)とあります。そのことが、次に記されたエピソードにはっきりと表われています。

《そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた》。

イエスさまは何度もご自分の受難を予告したにも関わらず、弟子たちはそれを受け入れることができず、ただイエスさまが栄光を受けることしか考えていません。受難の予告の意味することが分からない以上、彼らの願うこともまた的外れにならざるをえません。

ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネは、イエスさまに最初に招かれたガリラヤ湖の漁師であり、またペトロとこの二人とを合わせた三人は、イエスさまの側近中の側近であって、十二弟子の中のリーダー格の人たちでした。山上の変容のときも、ゲツセマネの祈りのときも、イエスさまは彼ら三人を伴われました。

マルコ10章32~45では、母ではなく息子のヤコブとヨハネ自身がイエスさまにお願いしたことになっています。この願いほど露骨に人間の欲望を言い表している言葉はないのではないでしょうか。それは、力や富、その他なんであれ手に入れたい、また他人の上に立ちたいという欲求です。ほかの十人の弟子たちも同じ思いを持っていたに違いありません。二人が自分たちを出し抜いてイエスさまに願い出たことに腹を立てています。今日のわたしたちも腹の底に同じ欲求を秘めています。

「杯」は祝杯をも苦杯をも意味しますが、ここでは苦難を暗示しています。イエスさまはゲツセマネの園で、十字架の死を「この杯」と言って、《父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください》(マタイ26章39)と祈っています。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われて「できます」と答えたヤコブは、ヘロデ・アグリッパによって弟子たちの中の最初の殉教者となりました(使徒言行録12章1~2)。

きょうの礼拝でも、わたしたちは聖餐にあずかりますが、わたしたちが飲む「杯」を通して、イエスさまはわたしたちの命を贖うために、十字架の死を遂げられたことを告げ知らせてくださいます。

《そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」》。

イエスさまは、異邦人を例にして弟子たちを諭しておられますが、これはこの世の有様そのものであり、イエスさまの弟子たちの実状をも描くものです。

イエスさまはそういう権力のあり方は否定されますが、偉くなりたい、上になりたいという思いは否定なさらず、そう願うあなたがたは率先して、仲間に仕える者、仲間の僕になりなさいとお求めになります。「仕える者」とは隣人に奉仕する生き方を意味し、「しもべになる」とは自らを隣人よりも下に置くへりくだった姿勢を意味しています。《へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え》なさいとの教え(フィリピ2章3)を思い出します。

この勧告をしめくくる最後の言葉は、イエスさまがなぜこの世に現われたのか、なぜエルサレムで十字架上で刑死したのか、その意味と目的をはっきりと示しています。イエスさまの死は「仕える」という生き方の頂点であって、イエスさまの十字架は万民に奉仕すること、すなわち、多くの人のために身代金を支払うことであったのです。「身代金」という言葉は、従来は「贖い」と訳されていましたが、新共同訳では、もともと奴隷を解放するために支払う代金のことを意味した言葉ですから「身代金」と訳されています。しかし、この言葉は聖書では、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放した、その救いのみわざ、過越しの出来事を指して使われるようになりました。イエスさまの死は、人々を解放し、命に導くためのものなので、「贖い」すなわち「身代金」と言われています。この言葉は、神の恵みによる救いを意味しているのです。

なお、「多くの人」という言葉は、日本語では「すべての人ではない」ということにも取れますが、元のアラム語では「すべての人」の意味も含まれているそうです。イエスさまの十字架がもたらす救いを特定の人だけに限定して考えることはできません。ちなみに、この表現は、聖餐式設定の言葉にもあって、「取って飲みなさい。これは罪の赦しのために、あなたがたと多くの人々のために流す私の血における新しい契約である」と出てきます(ルーテル教会式文、またマタイ26章28参照)。

《・・来たのと同じように》は、《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい》(ヨハネ15章12)でも同じような言い回しがありますが、この「ように」は単なる模範を示すのではなく、弟子たちへの勧めの根拠を明らかにするものです。人に奉仕することや愛することは良いことだとわたしたちは分かっています。ですから、自分でできることなのであれば、もうとっくにしているはずです。でも、自分の熱意や努力ではできなかったのです。イエスさまの死に至るまでの献身的な生き方、人に仕える究極の愛が基となり、原動力となって、わたしたちはやっと愛と奉仕へと歩み出せるのです。

わたしたちの社会は、競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする社会だ、という考え方が広く行き渡っています。「仕える」「僕になる」という生き方は、現代でははやらない生き方でしょうか。ところが、そうとも限りません。近年の経営管理の分野では、仲間を支援する(奉仕する)リーダーという概念が日本でも浸透してきているのです。このリーダーシップ思想は、アメリカのロバート・グリーンリーフ博士 Robert K. Greenleaf (1904~1990) が提唱した「サーバント・リーダーシップ servant leadership」という言葉で知られています。「サーバント」という言葉は本来、「従者」あるいは「奉仕者」を意味します。一見、指導者を意味するリーダーとは相容れないように思われますが、サーバント・リーダーシップは、サーバントこそがリーダーのあり方としてふさわしいとする考え方です。「リーダーのために部下がいる」という発想を逆転させて、「部下を支えるためにリーダーは存在する」と位置づけました。部下の目標達成のための行動を支援するのです。グリーンリーフ博士は、イエスさまの洗足の出来事に見られるリーダーシップ・スタイルに感銘を受けてこの発想を得たのだそうです。

《この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている》(ルカ16章8)という言葉があります。人を支援することにおいて、イエスさまを知るわたしたちは世の賢い人たちに遅れをとってはならないでしょう。十字架で死に復活された主イエスさまに従いつつ、主と隣人に仕える者として歩んで行きたいと思います。