Sola Gratia

降誕祭前夜 説教

闇の世に光を

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

クリスマスおめでとうございます。皆さまとご一緒に救い主イエスさまの御降誕を祝う礼拝ができますことを感謝いたします。

さっそくですが、心理療法家の河合隼雄先生の文章を紹介することから、今晩の話を始めたいと思います。

「小さい頃読んだ本の中にこんなことが書いてあった。何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなり、そのうち暗闇になってしまい、都合の悪いことに月も出ていない。必死になって灯(たいまつだったか?)をかかげて、方角を知ろうとするが見当がつかない。そのうち、一同のなかの知恵のある人が「灯を消せ」と言う。不思議に思いつつ気迫におされて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の町の明かりのために、そちらの方が、ぼうーと明るく見えてきた。そこで帰るべき方角がわかり無事に帰ってきた、というのである」(河合隼雄著『こころの処方箋』新潮文庫)。

なまじ生き残る術があると、それにしがみつき、かえって方向を見失うのかも知れない、と河合先生は書いています。自らが掲げる光に固執して、自分の光ですべてを見て、把握して、解決しようとするのが現代人の生き方となっています。しかし、わたしたちは目先の明かりに迷わされているのではないでしょうか。一度自分の灯を全部消して、闇の中で落ち着いて目を凝らして、クリスマスの光を見つける必要があるのではないかと思います。

《初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。》

先ほどは、ルカ福音書の降誕物語によって、最初のクリスマスに起こった出来事を聞きました。そして、その降誕物語の前後にヨハネ福音書を読んで、その出来事の意味について聞きました。

クリスマスは、神がイエスさまをこの世に送り出し、「闇の世に光を」与えてくださったことをお祝いする日です。ヨハネによれば、暗闇の中で輝く光は「人間を照らす光」であり、それはまた、「言の内にある命」であるといいます。そして何よりも万物に先立って、「初め」にあったものは「言」であったといいます。

聖書は、「ロゴス」という原文のギリシア語を、葉っぱの「葉」をつけない「言(ことば)」と訳しました。それはこの言葉が世のあらゆる言の葉とは違う意味であることを表わしています。ギリシア語の「ロゴス」は、もともとは普通に「言葉」を意味していましたが、古代ギリシアの哲学では、目に見える世界(万物)を成り立たせている根源を意味する重要な言葉になりました。このロゴス(言)を探求するために、ギリシアでは哲学や自然科学の元が発達しました。ヨハネは、そのようなギリシア文化(ヘレニズム)に生きる人々に対して、世界を成り立たせている根源ロゴスはイエス・キリストであると教えたのです。世界はこのロゴス(言)によって成り、保たれています。

このように、キリストはギリシア哲学のロゴスやユダヤ教の「神のことば」と似た点もあるのですが、決定的に異なる点は、その《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》(14節)ことです。「言」であるキリストは天の上に存在しておられるにとどまらず、人となって「世に来て」、神を見ることのできない地上の人間に神を説き明かされました。それがクリスマスの出来事です。そして、「言」であるキリストにおいて起こった出来事こそ、わたしたち人間にとって「命」であり「光」であるといいます。

《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。》

「言は世にあった」、すなわちキリストは、永遠の言として「初め」から世(万物)の根底におられたのです。そのキリストが光として世に来られました。この方こそ「まことの光」であって、世を構成するすべての人を照らして、真理を見えるようにするのです。この世には様々な種類の光があって、その種類にふさわしい働きをしていますが、キリストの光は、すべての人の霊性を照らし出して、霊的次元の真理を見えるようにするのです。キリストはこの真理を見させる光であり、また、地上の光線が象徴している本体であるので、キリストこそ「まことの光」だと言われます。

キリストはその名を信じる人々に「神の子となる資格」を与えます。神の子でない者が神の子となるには資格(力)が要ります。その資格(力)は、ここでは名指されてはいませんが、聖霊にほかなりません。この神の子とならせる資格(力)である聖霊は、キリストが信じる人々に与えてくださる恵みの賜物です。恵みによって与えられるとは、受ける側の人間に何の資格も条件も要らないということです。恵みとは、神が無条件に人を受け入れ、御自分に属する者として関わりをもってくださることです。このことはキリストの出来事において起こりました。人はキリストに結ばれることによって、このような恵みによる神との関わりの領域に入るのです。ヨハネはこのキリストの働きについて、次のように書いています。

《わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》(1章16~18)。

このように、イエスさまがイスラエルの歴史の中に現れ、十字架上に死に、復活して神の右に上げられた出来事全体が、神の出来事として神を人々に示しているのです。ヨハネはこの神について、次のように世に告げます。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》(3章16~17)。

「神はその独り子をお与えになった」は、十字架の出来事におけるイエスさまの苦しみだけでなく、イエスさまを世に遣わされた父なる神の苦しみをもうかがわせます。イエスさまの十字架上の死と復活の意味は、聖霊によって信じる者の心に注がれる体験(ローマ五章五)を通し、一人ひとりが生涯の歩みの中で悟るべき課題です。

ところで、「世」とは、神に背を向け、神に敵対する人間世界のことです。「神が世を愛された」というのは、神が自分に敵対する者たちを愛されたということです。自分を愛する者を愛するのではなく、自分に敵対する者を愛するところに、神の愛の質が表されています。イエスさまが取税人や遊女をそのまま受け入れて愛されたように、神はその愛を受ける資格のない者たちを、無条件で愛されるのです。神がこのように無条件絶対の愛をもって世を愛し、そのひとり子をお与えになったのは何のためか。それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」のです。

まことの命の光が天から降っても、それを拒み、財産や名声、健康や業績、家族といった小さな光に依り頼み、それを究極の拠り所としている限りは、まことの命の道は開けません。イエスさまはわたしにとって一体誰なのか、この方をどのようなお方として信じるのかが、その人の人生に対する根本的な姿勢を決定づけていくのです。

わたしたちがしがみつき、守ろうと躍起になっている小さな光をいったん消して、暗闇の中に見えてくる命の光に目を向けるよう、神は求めておられます。そしてその愛の光に照らされる時、歩むべき道、進むべき方向が指し示され、人生や家族、仕事やお金、あるいは困難や試練の受け止め方も変わってきます。神の御心に適う方向へと導かれるのです。今わたしたちもまた神に結ばれ、命の光に照らされて歩むように招かれています。

《わたしは戸口に立ってたたいている。もし、だれかがわたしの声を聞いて戸を開くならば、わたしは彼のもとに入ってともに食事をし、その人もまたわたしとともに食事をする》(黙示録3章20)。この言葉に由来する、家の外に立って戸を叩いているイエスイエスさまを描いた有名な絵があります。イエスさまを信じることが心に中にお迎えすることです。クリスマスは、イエスさまの誕生日だから、めでたいから祝うのではありません。このイエスさまを心の中に迎え入れるときに、本当のクリスマスがあなたの心にも来るのです。毎年、教会でクリスマスを迎えておられる方も、今年も新しい思いでクリスマスを祝いましょう。闇を照らし、永遠の命を与えてくださる光であるイエス・キリストに、心から感謝をささげましょう。